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7. メディアと環境
701 情報環境
着たい衣服、好みの柄に、ひとはどこでどうやって出逢い、知ることができるのだろうか。知識だけでなく、感性の底辺に属する部分をはぐくむのも、生まれて育った環境だ。食べるものや着るものに好き嫌いがでるようなころには、都会の子どもであれば同町内か、すこし離れていてもにぎやかな店屋のつづきや、行き交うひとからたくさんのことを学習して、父母やそのほかの肉親から得てきた知恵の、根っこの部分をふくらませてゆく。とはいえ明治の初めごろまでの中・下層の日本人の多く、とりわけ女性の場合、一生を通じてもそれ以上の、広い知識を吸…
7. メディアと環境
702 新聞/雑誌(19世紀末)
開化以後それほど時をおかずにつぎつぎと創刊された新聞が、大衆の知見を、それまでとは比べものにならないくらいひろげたことは疑いない。新聞の刊行は幕末からはじまっていたが、それらは特定のせまい範囲の読者を対象にしていたもので、1871(明治4)年創刊の[横浜毎日新聞]、[新聞雑誌]、1872(明治5)年の[郵便報知新聞]、[日新真事誌]、[東京日日新聞]、1874(明治7)年の[朝野新聞]、[読売新聞]、1875(明治8)年の[仮名読新聞]、[平仮名東京絵入新聞]等々は、より幅広い読者に受け入れられて、ほと…
7. メディアと環境
703 新聞/雑誌(20世紀はじめ)
1910(明治43)年までに創刊され、たくさんの若い女性読者を獲得した【婦人画報】、【婦人世界】、【婦女界】は、当然豊富な身装記事をのせていたが、それよりやや遅れて出発した【主婦之友】(1917~)、【婦人倶楽部】(1920~)のふたつは、かゆいところへ手のとどくような実用記事を提供して、主婦を中心とする女性読者を奪いあった。いくぶんハイブロウな視点をもっていた【婦人之友】(【家庭之友】の改題)(1903~)も、実用性という点ではその側に入るだろう。裁縫技術に関しても、一つ身から入って、袷、綿入とすすみ…
7. メディアと環境
704 プレゼンテーション
プレゼンテーション(presentation)は欧米のファッション辞典のたぐいには出ていないことがある。おそらく意味が広すぎる、また多義的なためだろう。プレゼント(present)は提供するとか、展示する、発表する、という意味になる。日本では展示会とか発表会、ファッションショー、あるいは広告宣伝ということばがすでに使い慣れていて、とくに必要がないためか、プレゼンテーションなどと言っても、ちがう意味にとられそうだ。ここでは(1)商品の宣伝広告、(2)陳列/ディスプレイ、(3)発表/展示会、にかぎろう。(1…
7. メディアと環境
705 映画
映画――活動写真が舶来の見世物としてわが国に入ってきたのは、日清戦争が終わってまもないころ。東京の浅草に映画常設館の「電気館」が開業したのが1903(明治36)年。大阪では少し遅れて1907(明治40)年、千日前に「電気館」が開業している(→年表〈事件〉1907年7月 「大阪千日前に電気館開業」〔谷川〕)。日露戦争の実写映画は、本物の迫力によって人々の魂を奪った。映画の最大の魅力はこの「本物」、あるいは本物らしさの迫力だ。それはもちろん戦場や災害報道、ナイヤガラ瀑布の紹介のようなドキュメンタリーだけでは…
7. メディアと環境
706 チャンバラと男のイメージ
異能作家の橋本治は『完本チャンバラ時代劇講座』という本のなかでこう言っている。「かつて日本の子供の大多数はこの遊びをしたのです。日本人の人格形成とチャンバラごっこというのは、どこかでかたく結びついている筈なのです(……)」。昭和10年代生まれくらいまでの男の子は、ちょうどテレビ時代初期の少年が、変身!と叫んで仮面ライダーの恰好をしたように、空き地で棒きれをふりまわし、《鞍馬天狗》や《まぼろし城》の物語の一部を演じていた。チャンバラごっこの特色は、映画のすじをあたまに置いて、その主人公や敵役になってそれを…
7. メディアと環境
707 帝国劇場
新政府が比較的早い時期から手をつけた文化政策のひとつに、日本演劇の品格を高めることがあった。すでに1872(明治5)年には、猿若町の三座および作者三名に対して、追々貴人あるいは外国人の見物が増えるであろうからとして、これまでのような「淫奔ノ媒トナリ親子相対シテ観ルニシノビザル」等のことを禁じた(→年表〈事件〉1872年2月 「東京府、猿若町三座太夫ほかに禁ず」新聞雑誌 1872/3月)。すこし遅れて寄席に対しても、「第三条 猥褻ノ講談及ビ演劇類似ノ所作ヲナスベカラズ」(寄席取締規則)との布達を発している…
7. メディアと環境
708 浅草オペラ
日本人が女性のからだを、それもむき出しの肩や素足を舞台で鑑賞することは、帝劇の女優劇や、赤坂ローヤル館のオペラの時代を経たのち、1910年代(大正期)後半の浅草オペラ、関東大震災後のおなじ浅草の軽演劇、レビューで実現した。1916(大正5)年の帝劇洋劇部の解散が、結果的には日本のオペラ運動にきっかけをあたえたことになる。当時帝劇にはイタリアから招いた演出家ジョヴァンニ・V・ロッシがいた。ミラノのスカラ座付属バレエ学校を卒業し、スカラ座に在籍の経歴もあるロッシは帝劇で、また帝劇との契約の終わったのちは赤坂…
7. メディアと環境
709 宝塚レビュー
兵庫県宝塚温泉の催し物の余興としての、少女歌劇の最初の公演は、1914(大正3)年4月のことだった(→年表〈事件〉1914年4月 「宝塚少女歌劇の最初の公演」)。東京の帝劇歌劇部がまだ西洋オペラの翻案公演をつづけていた時期で、いわゆる浅草オペラが産声をあげる以前のことだ。前の月には芸術座による《復活》が大当たりをとり、街には劇中で松井須磨子の歌った《カチューシャの唄》が流れていた。宝塚少女歌劇は4年後の1918(大正7)年には最初の東京公演を実現し、そのあと毎年の東京公演は定例となった。1924(大正1…
7. メディアと環境
710 舞踏会/夜会
公的な夜会、または舞踏会についての新聞報道は、1880年代(ほぼ明治10年代)にきわめて多く、1890年以後(ほぼ明治20年代半ば)になると、開催の事実はともかく、新聞のニュースとしてはごくわずかだ。ひとつの例として、1883(明治16)年の1月から6月のあいだに、[時事新報]紙上では1/8、1/10、1/12、1/21、1/23、2/7、3/4、3/7、3/24、3/26、4/8、4/17、4/23、5/7の各日の夜会が報道された(→年表〈現況〉1883年6月 「夜会に関する報道」1883/6月)。こ…
7. メディアと環境
711 盛り場/行楽地
都会に住む者の幸せのひとつは、人出でにぎわう場所をもっていることだ。そこには眼を愉しませるものや、欲望を刺激するものがある。人と連れだってゆけば、新しい話題のタネが見出されるかもしれないし、ひとりで歩いても、ゆきずりの、大勢の人に見られる自分になれる。それでいて、その人目を気にしないで済むところも、自分たちだけになれるところもある。東京も大阪も、開化以前から物見遊山の場所は豊富にもっていた。落語のまくらでは殿方のおたのしみは吉原、御婦人方のおたのしみは芝居(コンニャク、芋、唐茄子とつづく)という。しかし…
7. メディアと環境
712 芝居見物
近代80年の演劇界は、九代目市川團十郎(~1903)、五代目尾上菊五郎(~1903)、初代市川左団次(~1904)らによる歌舞伎芝居の隆盛によって明けた。「団菊左三優の顔合わせあれば、天下無二の大演劇として、満都を振動せしむ」とは、『東京風俗志』(1899~1902)の著者のことばだが、ほぼ同時期に3名優が没し、時代が大正と変わっても昭和と改まっても、九代目、五代目の舞台を偲ぶ人の想いは熱く、なにかというと故人との比較論がでて、「團菊じじい」と笑われた。その時代、新しい演劇への模索や冒険がなかったわけで…
7. メディアと環境
713 東京の路
女性が外出のしやすさの点から見るなら、都市としての首都東京のいちばん困った問題は、近代80年の前半でいえば公衆便所の不備であり、後半ではいたるところのぬかるみ道だったろう。開化以前の江戸の町がそれらの点でもっとマシだった、ということではない。裾の汚れを気にするような娘や女房は、めったに遠出をすることなどなかったのだ。外国人の見る眼の不体裁ということでは共通する、男性のところかまわぬ放尿と、不潔な共同便所とは、開化当初から行政にとっては頭の痛い課題だった(→参考ノートNo.115〈排泄とその設備〉)。19…
7. メディアと環境
714 自転車
自転車も明治のかなり早い時期にわが国に入ってきて、最初は貸自転車が、もっぱら遊戯用として流行していた。総合誌【東京新誌】1879(明治12)年の第147号には、詳細かつ具体的にその乗りかたの説明があり、「宛(あたか)も馬に騎(の)るに似たり」とあって、遊園地などにあった貸し馬とおなじように考えられていたようだ。やがて10年も経たないうちに、おそらく自転車の小回りのきく性能が評価されて、届け物の配達には欠かせないものになってゆく。買い手が商店に足をはこぶのではなく、ご用聞きが注文をとって、それをあとから配…
7. メディアと環境
715 自動車
東京では関東大震災後の1924(大正13)年、復旧のおくれている都電の代替として発足した乗合バス事業によって、大戦以前の都市交通網はほぼできあがった。ただし青バスとよばれた民営バスは、すでに5年前から運行をはじめ、好成績をあげていた。都営バスは最初は一時的な運行の予定だったせいか、車体も粗末だったし、小柄な女性にとってはステップの高すぎるのに悩まされたらしい。都電の場合は、線路沿いにきづかれた10センチほどの高さの安全地帯に助けられたが、バスはたいていの場合、地面から約90センチもあるステップまで脚をあ…
7. メディアと環境
716 交通
明治となってから、女性の生活に生じた変化のひとつに、外出の機会がふえたということがある。主婦が日課のように日々の小買いものに出かけるようになるのは、ご用聞きや振売の商人がすくなくなり、また女中をおく習慣の減ってきた関東大震災(1923)以後のことだが、それよりかなり前に、化粧や着るものに気をつけて家を出なければならない、少しばかり遠出の機会や場所が増えたのだった。職場への通勤もそのなかに入る。そしてそれを助けたのが大都市の、市内交通手段の整備だ。市内交通整備の第1段階は、人力車の急速な発展だった。人力車…