| テーマ | メディアと環境 |
|---|---|
| No. | 701 |
| タイトル | 情報環境 |
| 解説 | 着たい衣服、好みの柄に、ひとはどこでどうやって出逢い、知ることができるのだろうか。知識だけでなく、感性の底辺に属する部分をはぐくむのも、生まれて育った環境だ。食べるものや着るものに好き嫌いがでるようなころには、都会の子どもであれば同町内か、すこし離れていてもにぎやかな店屋のつづきや、行き交うひとからたくさんのことを学習して、父母やそのほかの肉親から得てきた知恵の、根っこの部分をふくらませてゆく。 とはいえ明治の初めごろまでの中・下層の日本人の多く、とりわけ女性の場合、一生を通じてもそれ以上の、広い知識を吸収する手段も機会もほとんどなかったろう。江戸-東京の下町なら下町風の、身分の違いこそあれ三度の食卓のうえも、ものの言い様も、きものの着方も、スタイルが大きく変わるようなきっかけは乏しかった。 そういう民衆にとって、情報環境の最初の大きな変化が学制の発足だったことは疑いない。性急にすぎた1872(明治5)年の学制は1879(明治12)年には廃され、代わって教育令が公布された。男女を問わず、6歳から14歳までの8年間、父母の責任において就学させること。授業料の徴収は便宜に任すとあって、子どもを学校にやることにあまり熱心でない貧しい家庭への配慮がうかがわれる。1880(明治13)年頃の女子就学率は男子の二分の一弱だったが、明治末の就学率はようやく50パーセントにまであがっている。 学校に通うことによって身につくものは教師と教科書から得る知識だけではない。子どもたちは生活水準のちがう家の子どもとも接触し、自分と友だちとを比較することも学ぶのだ。とりわけ女の子にとっては、友だちの好きなこと、話しぶり、着ているものへの親和力はつよい。流行が模倣と追随という現象であるとすると、流行のもっとも素朴な根は、競争心よりも、仲のいい子と違ったものを着るのはいやという、この無邪気な怖れにあるのだろう。情報環境はここではつよい強制力をもつ。 小学校に通う子どもの着るものがぜいたくで、とりわけ試験のときには付き添いの親ともども着飾る傾向があることに対しては、新聞にも苦情が寄せられている。東京など都会の小学校では男女とも袴での通学を義務づけたため、これを負担に感ずる家庭もあったらしい。明治の女生徒の袴は高等女学校ばかりではなかった。 此頃では次第に贅沢に成って種々な切地が用いられる、先ず毛織物から云うと、最も普通なのがメリンスで、是は小学校の女生徒が重に用いて居るが(……)仕立料は別として切地丈の値段を三越呉服店で調べて見ると、メリンスは一円八十銭…… 小学校から上の学校に進む者がふえるにつれ、とりわけ女性の視野はひろがった。それまでも教育を受けた女性はいたのだが、その内容は和歌や詩文の古典、茶道や立花などのいわゆるお稽古ごとが中心だった。女学生たちの視野のひろがりにとって重要だったのは、家庭や隣近所の顔見知りからはなれて、多くは乗り物を利用して遠くの学校までの道を通ったことだ。それによって彼女たちは、単に見るだけであっても「ひろい世間」を知ることができたと同時に、自分がうら若い処女として、ひとからときには熱い眼で見られている、という自覚ももつことになる。 明治時代、著名な女学校の周辺やおもな通学路が新聞雑誌に紹介されているのをよく眼にする。何時頃のお堀端線の電車にはどこどこの生徒が多い、などという記事もある。用事もないのにそんな電車に乗ろうとする閑な若者もいたかもしれないが、子どもから女になりかかったばかりの女生徒たちにとって、そんな電車のなかが最初のファッションステージだったのだ。 身装の情報環境のひろがりは、遠出の足の便利さにも比例する。大都市の民衆が生活の近代化を実感したことのひとつは、市内交通網の急速な発展だった。東海道線の整備などに多くの民衆はなんの関係も関心もなかったろうが、人力車の客引き競争につづいて、1903(明治36)年、それまでの馬車鉄道をひきついだ東京電車鉄道の営業開始にはじまる市電路線の急速な拡張は、ひとびとの足を都心へ都心へとひきよせた。 冠婚葬祭のきまりごとに縛られた装いはべつとして、庶民がいちばんおしゃれをする日といえば、乗りものにのって都心の盛り場に出、並んだ商店の飾り窓を見て歩き、1920年代(大正末~昭和初め)以後ならデパートで買い物をし、劇場か映画館で2、3時間をすごし、多少の決心が要る程度のレストランで食事をするという、1カ月に1日あるかないかの日がそれだった。 そんな日の女性はひとの装いを見る努力と、ゆきずりのひとに見られる緊張とをあわせて強いられる。過去には、大きな芝居小屋の桟敷や平土間に女の装いの花が開いた。しかし大衆娯楽である映画館の客席は、みじかい休憩時間以外は暗すぎてそんな華やかさはないし、大劇場や音楽ホールにあるようなフォワイエ(foyer)ももっていない。結局、庶民の主要なファッションステージは、銀座や心斎橋筋のペーブメントのうえ以外にはなかったのかもしれない。 それゆえにこそ都心の商店街は、1880年代(ほぼ明治10年代)までの、軒の深い土蔵造りで、長暖簾を下ろした構えから、1890年代以後は、舞台の背景にふさわしいようにペーブに面した店構えを一変した。銀座の呉服商中、ファサード全体をガラス戸にして店内が見えるようにしたのは1898(明治31)年の市田といわれるが、1908(明治41)年にはなにかにつけて古風さを守っていた通旅籠町の大丸も、道路面をショーウインドウとした(→年表〈現況〉1908年3月 「大丸、改築営業」報知新聞 1908/3/14: 7)。10年ほど後の新聞には、ショーウインドウの陳列からシーズンの流行だけでなく、店の個性までを読みとらせるウインドウ評が現れている。 市内各商店の窓飾りは三月に入って追々陳列替えし、最近は全く春らしい品物と置き換えられた。客の心々を一緒に見ることのできるのは矢張り銀座通りである。最もゴツゴツした野暮ったいものを並べたがる美濃常は海軍軍人の好みを見せ、(……)只仰々しく大大しく出来上がったものを並べている田屋は華族や豪商の好みを見せ、華奢なものばかりを集めた森安は役者や芸人(……)なるたけ偏しない形を集めている信盛堂は専ら(……)会社の心を見せている。 1907(明治40)年の日本橋三越は、春の新柄陳列会にあわせて、店内にはじめて食堂、写真室を設け、1階ホールの中央では音楽学校の北村季晴による優美な洋楽を奏して、さながら小博覧会のよう、と新聞は報じている(→年表〈現況〉1907年4月 「東京日本橋三越」都新聞 1907/4/2: 3;1907/4/5: 5)。のちに三越は、人の一生に必要な物は、墓石以外すべてありますと豪語したという。しかし三越にかぎらず、呉服商から百貨店となった大都会の一流デパートには、大人も子どもも、貧乏人も、半日をゆっくりと遊び暮らすだけの眼の法楽が用意されるようになった。とりわけ1931(昭和6)年の白木屋の6千坪の増築が口火を切った、東京の百貨店の売り場拡張競争以後はそういえたろう(→年表〈現況〉1931年10月 「東京の百貨店の新増築戦」時事新報 1931/10/1: 2)。それはまさに大都会に暮らす者すべての特権だった。その日暮らしの安月給取りの女房も、情報環境という点では運転手つきの自家用車で乗りつける華族の奥様となんのちがいもなく、眼だけは肥やすことが可能になったのだ。 1906(明治39)年に水谷不倒は、流行はむかしは役者や芸者がつくり、また呉服店がつくったが、いま流行を押しひろめているのは新聞紙だと言った。男に比べるとはるかに新聞や雑誌に接する時間のすくなかった女性たちが、自分や家族のための、衣に関する情報を文字や写真から手に入れるようになったのは、1910年代以後(大正前半~)の婦人雑誌の人気、とりわけ【主婦之友】、【婦人倶楽部】のしつこいほどの実用記事、それに「よみうり婦人欄」にはじまる、新聞の家庭欄の充実だったろう。とくに関東大震災(1923)以後は、明治期に比べれば倍以上に増えた紙面を埋めるためと、新聞を取る取らないに財布のひもを握っている女性の意見が馬鹿にならないことを知った新聞社は、名の通った美容家や外国からの帰朝者をスターのように仕立てて、写真入りの流行記事を充実させるようになる(→年表〈現況〉1925年4月 「街頭流行情報」時事新報 1925/4~)。ただしこうした、新聞雑誌のとりわけ流行記事が、話題提供以上に実際に家庭婦人に、どのくらい取り入れられたかは疑問だろう。 おなじことが外国のファッション雑誌の人気についてもいえるだろう。すでに震災前にも、「近頃米国から来る子供洋服の雑誌が、専門家ばかりでなく、家庭用にどしどし売れ始めた」という丸善からのレポートがあった(→年表〈現況〉1922年4月 「子供洋服の研究―流行におくれぬ外国雑誌」国民新聞 1922/4/17: 5)。それが1936(昭和11)年にもなると、大阪でもとりわけ英語のファッション雑誌を買うひとが増えた、という報道がある。これまでは定期購読者が多かったのだが、近ごろでは頁をめくってみての一冊買いが多くなったと(→年表〈現況〉1936年11月 「外国雑誌を利用する家庭婦人」大阪毎日新聞 1936/11/21: 7)。 しかし果たしてこの時代の日本女性のどの程度のひとに、ヴォーグ(VOGUE)の写真情報が、着装や製作の実際的な参考になっただろうか。店頭で気に入った美しい外国雑誌を買えるようになったのは、女性の購買力のたしかな向上のおかげだ。それはソファに身を埋めて眺めるだけで十分に愉しく、そして時には、おしゃれをするときのちょっとしたヒントに出会う可能性だってある。ニューヨークやパリから届いたファッション雑誌は、そんなファッションドリームを味わうための、緩やかな情報環境と言えただろう。 (大丸 弘) |