近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ メディアと環境
No. 709
タイトル 宝塚レビュー
解説

兵庫県宝塚温泉の催し物の余興としての、少女歌劇の最初の公演は、1914(大正3)年4月のことだった(→年表〈事件〉1914年4月 「宝塚少女歌劇の最初の公演」)。東京の帝劇歌劇部がまだ西洋オペラの翻案公演をつづけていた時期で、いわゆる浅草オペラが産声をあげる以前のことだ。前の月には芸術座による《復活》が大当たりをとり、街には劇中で松井須磨子の歌った《カチューシャの唄》が流れていた。

宝塚少女歌劇は4年後の1918(大正7)年には最初の東京公演を実現し、そのあと毎年の東京公演は定例となった。1924(大正13)年7月には4千人以上を収容する大劇場が落成、その秋に中国から来日中の梅蘭芳一座を、翌年春には六代目尾上菊五郎一座を新しい大劇場に迎えている。

このような順調な発展の一方では、いくつかの問題も生まれている。宝塚をからかって、「男かと思えば女、少女かと思えば老女」という。男性を舞台にのせないというコンセプトはたしかにわかりにくい。この点については小林一三にも迷いがあったらしく、一時的だったが、専科をつくって男子を募集したこともある。「少女」に関しては、1922(大正11)年5月に、坪内士行作《噂》のなかで、人妻役の春日花子に丸髷を結わせたことで問題が生じた。それまでの宝塚の舞台では、役柄がなんであれ、登場人物は髪はお下げであるのが約束になっていたのだ。それに対して人妻の丸髷ほど色っぽいものはない、というのがこの時代の人の感覚だった。

こうした矛盾や迷いを包み込んだままで、1927(昭和2)年9月、岸田辰弥による最初のレビュー《モン・パリよ!モン・パリ(吾が巴里)》が上演され、大ヒットした(→年表〈事件〉1927年9月 「宝塚少女歌劇の《モン・パリ》上演」朝日新聞 1931/9/13: 7)。フランスから帰国したばかりだった岸田の、まのあたりにしてきたフォリー・ベルジェールやムーラン・ルージュの華やかな舞台を、可能のぎりぎりまで宝塚の舞台で再現したい、という願望の所産といってよい。

その願望が、実現にさらに一歩近づいたのが、1930(昭和5)年5月の公演《パリゼット》であり、これまたフランスから帰朝したばかりの白井鐵造の作品だ。

この二つの作品が宝塚に、いや日本の舞台にはじめて導入したものは、レビューだった。唄とダンスによってストーリーが、あるいはストーリーらしいものが進行する。はなやかで、露出度の大きい衣裳も、腕や脚の、リズムにのった闊達なうごきのうみだす高揚感も、それまで日本の観衆には未体験のものだった。なるほど群舞そのものは阿国歌舞伎にもあったかもしれないが、そこにはなまの肉体の動きがもつ迫力がなかった。

それだけにまた、踊り子――「少女」たちの抵抗はつよかったらしい。いやがる少女たちに、岸田はパリから持ち帰った舞台写真や雑誌などを見せて、納得させるのに手を焼いたと、後年おなじ苦労を経験している丸尾長顕が『レビューの裏表』のなかに書いている。考えるまでもなく1927年、1930年というこの時期は、いわゆるエログロ・ナンセンス真っ盛りのときだった。したがって舞台一杯に素足のラインダンスを展開する少女歌劇のレビューもまた、そういう見かたでうけとられるのもやむをえない。

その、エログロ・ナンセンスを代表するのが、東京浅草の軽演劇だった。浅草公園6区あたりはオペラブームの去ったあと、その残党たちを中心に模索がつづいていた。その手探りのひとつとして生まれたのが1929(昭和4)年の7月、水族館の2階に「日本最初のレビュー劇場」と銘打って幕開けした、カジノ・フォーリーだった。レビューということばはすでに2年前の《モン・パリ》が使っているので、その人気にあやかろうとしたものかもしれない。演劇史や大衆文化史では有名なこのカジノ・フォーリーだが、第一次はたった2カ月で潰れ、つづいて結成された第二次も、川端康成の新聞小説『浅草紅団』の評判に、すくなくとも最初のうちは支えられていたらしい。

カジノ・フォーリーがようやく浅草らしい娯楽の目玉のひとつになった理由が、なによりもエロを売物にするその大胆さと、巧妙さにあったことはたしかだ。たとえばズロース事件というものがよく知られていて、これは毎週金曜の舞台で、踊り子がズロースを脱ぎ落とす、という噂だった。小さな事実はあったのだが、それを劇場がうまく利用したらしい。ともあれ、浅草の客のかなりのパーセントは、あの少女玉乗りのタイツによだれを流していた連中だったのだ。

のちに映画女優に「出世」した若き日の望月優子がカジノを志願したとき、座長格だったエノケン――榎本健一に、即座に「脚を出してみな」といわれ、スカートを捲ったところ、「きれいな脚だ、明日から来てごらん」といわれたという。そのエノケンは、ときにはエロケンといわれていた。

きれいな脚、だったろうが、それは宝塚の舞台でラインダンスを踊る脚とはちがうかもしれない。軽演劇の舞台で見せる脚は、男のいやらしい眼で見る脚であったほうがいいのだ。

どんな脚にせよ、それまでのわが国には素足を見せるという踊りはなかったし、女性の脚の美を評価する習慣もなかった。

資生堂の三須裕は、美容家の視点からこう言っている。

今に、いい足だな!と、通る人を驚嘆させるほどの美しい足が、銀座をうんと歩くに違いありません。(……)歩くということは、長いあいだ日本婦人の知らなかったことであります。日本の婦人は長いあいだ、足はお尻の坐布団とばかり思っていたのであります。
(→年表〈現況〉1927年12月 三須裕「脚はどうしたら美しくなるか」【婦人世界】1927/12月)

一方宝塚は、清く正しく、というモスグリーンの制服の袴にふさわしい方向を守るとともに、《モン・パリ》、《パリゼット》がそうであったように、花のパリ志向の姿勢は一貫しつづけた。宝塚に憧れる少女の夢は、パリへの憧憬と重ねあわされていた。ライバルのSKDに水ノ江滝子のような大スターは現れたが、宝塚のこの路線は昭和戦前期の日本の若い女性の心をたしかにとらえた。というのも幸いなことに、1932(昭和7)年の《巴里の屋根の下》3年後の《巴里祭》からはじまって、クレール、フェデ、デユビビエ、カルネらによるフランス名画の封切り、その主題歌の流行がつづいていたからだ。

ステージ・ダンスはその後、1936(昭和11)年の日劇ダンシングチームの誕生によって、一段とレベルアップする(→年表〈事件〉1936年6月 「日劇ダンシングチーム誕生」)。重山規子の脚は、ジジ・ジャンメールの脚に近かったかもしれない。それは美しい脚だが、ショーウインドウのなかの高価な商品のようだ。

(大丸 弘)