近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ メディアと環境
No. 710
タイトル 舞踏会/夜会
解説

公的な夜会、または舞踏会についての新聞報道は、1880年代(ほぼ明治10年代)にきわめて多く、1890年以後(ほぼ明治20年代半ば)になると、開催の事実はともかく、新聞のニュースとしてはごくわずかだ。ひとつの例として、1883(明治16)年の1月から6月のあいだに、[時事新報]紙上では1/8、1/10、1/12、1/21、1/23、2/7、3/4、3/7、3/24、3/26、4/8、4/17、4/23、5/7の各日の夜会が報道された(→年表〈現況〉1883年6月 「夜会に関する報道」1883/6月)。この日時には夜会以外の宴会、たとえば新年会などは除外している。会場は大臣官邸、各国公使館のほか、芝公園の紅葉館、延遼館、星ヶ丘茶寮、築地あるいは上野の精養軒だった。鹿鳴館はまだ建設されていない。

新聞で報道されるような大きな夜会は、天長節、憲法発布記念といった国家的祝日のほか、皇族家の婚礼披露、閣僚の新任披露などが主な名目だが、例年もっとも盛大だったのは、外務大臣主催の天長節祝賀夜会のようだ(→年表〈現況〉1886年11月 「鹿鳴館の大夜会」東京日日新聞 1886/11/5: 3)。

明治時代にひらかれた夜会の、具体的内容を記録した資料は新聞記事以外には乏しい。筆まめな文人たちのほとんどが、公的な夜会や園遊会に招かれるような身分ではなかったためだろう。むしろ文飾と想像を交えてはいるだろうが、芥川龍之介の『舞踏会』(1922)が、じっさいに作中のヒロイン明子からではないにしても、まだかなりの具体的情報は得られた時代だから、信憑性が高いと考えてよい。明子の目にうつった鹿鳴館の、瓦斯燈の光に明々と輝く内部は、さながら異世界であるように描写されている。それは1886(明治19)年の日本、あるいは東京との対比、というだけでなく、ピエル・ロティとの出会いを含め、明子の人生にとっての異世界であった、とさえいえる。

夜会の時間の流れのなかでも舞踏の時間は、ほとんど外国人の男女に支配されていたようだ。不平等条約改正をゴールと睨んだ伊藤博文たち開明派の、いわば鹿鳴館作戦は、1880年代初めから始動した。1885(明治18)年9月に荏原郡大井村にダンス演習所というものができる(→年表〈事件〉1885年9月 「舞踏演習所」東京日日新聞 1885/9/19: 午後2)。9日の[東京日日新聞]はそれを「近来わが国の女風追々欧風に傾きて、すでに束髪の会は興りたれども是は唯其の形容のみに止まりて、未だ女俗改進の神髄をうつすに足らず、若し夫れ将来黄白の人種相交わりて夜宴晩会を開くに当たり」、日本の女性が西洋の女性に伍して舞踏場の華となるように、というのが設立の趣旨だが、何人の発起なるかはわからない、と報じている。もちろんダンス教習所はここだけではなかった。身分ある女性たちのなかには明子のように、西洋のダンスと作法とをみごとに身につけた女性もいたが、それはごく少数だったろう。

加えて、明子のように若い美しい女性が、舞踏場でめだちにくい雰囲気も、あったように想像される。あるイギリス人が東京での舞踏会を評して、その盛んなこと、上達ぶりをみれば、やがては欧州の舞踏社会に加わることも不可能ではない、ただし違和感のあるのは、欧州では舞踏場は若い女性に占有されるのに対して、日本では老婦人がはなはだ多いことだ、と(→年表〈現況〉1885年7月 「英人、日本の舞踏会を評す」郵便報知新聞 1885/7/12: 2)。

老婦人とはいえないまでも、大臣夫人など身分ある婦人たちのなかに、10年後、20年後のような華族女学校出身者などはまだひとりもいなかった。多くは風にも当たらない深閨のなかに日々を送っている奥方が、「御主人様の御職務上や御身分柄で、どうしても交際社会にお出ましにならねばならぬこととして、随分お内気な方でもその洋装で押し切って、そうした場所にもお出でになりました」(大山捨松子「鹿鳴館時代の思出」【婦人画報】1918/12月)。

先のイギリス人はつづけて、舞踏会はいまの日本全体とは不釣りあいのものだと言い、この不釣りあいをなくすことが、文明社会に仲間入りする条件だと、伊藤博文が聞けば耳の痛いことまで、遠慮なく言っている。

1893(明治26)年3月12日、天皇皇后の銀婚を祝う豊明殿での夜会では、天皇が皇后の手をとって出御するという、前例のないことがあった。そもそも正式に臣下の拝をうける場合の天皇皇后は、ともに南面して立つが、並ぶことはなく、皇后は一歩下がった位置に立ち、ふたりの間にはかなりの間隔が置かれる。これが奈良朝以来のしきたりだ。もともと銀婚式ということ自体、日本の故実にはない西洋の習慣であり、まして公衆の面前で皇后の手をとることは、西洋風に、妻としての皇后をエスコートすることを意味するのだから、天皇としてはこの夜、かなりの覚悟があったにちがいない。個人としてはどちらかといえば保守的な好みでありながら、国家の開化についてはつよい覚悟をもっていた明治帝らしい情景だった。またそれは、西洋風の夜会という形式のもとだからこそ、できたことだろう。

舞踏会をともなう夜会の盛んだった時期は短く、1890年代(ほぼ明治20年代)に入るころには園遊会の方が好まれるようになった。舞踏会が敬遠された理由のひとつには、女性たちの洋装への、抵抗感といわないまでも、違和感があったかもしれない。鹿鳴館の盛んな時代でも、ボールルーム(ball-room)に、古様な十二単風スタイルで現れる女性はあった。これは当時の錦絵そのほかにも描かれている。1874(明治7)年)の法令によれば、勅任官および麝香の間詰の輩の妻女は、髪はトキサゲ、それに白褂(しろうちき)、赤袴となっている(→年表〈事件〉1874年1月 「参朝の服制規定」【宮内省達】無号 1874/1/13)。また、1884(明治17)年の宮内省の達しでも、褂、袴、垂髪、と同様にきめられ、条文の末尾に「西洋服装ノ儀ハ其ノ時々達スヘシ」と加えられている(→年表〈事件〉1884年11月 「婦人の通常礼服、通常服についての規定」【宮内省達】無号 1884/11/15)。

夜会の多くは、男性の大礼服はべつにして、男女とも宮中礼装に準じるものとされているので、貴婦人たち、それも多くのけっこう年輩の婦人たちは、コルセットで締めあげた不慣れなバッスルドレス(bustle dress)で、自己嫌悪を耐えるか、洋風のシャンデリアの下でおすべらかしに緋の袴という、キッチュ(kitsch)に耐えるかの選択をせまられる。ピエル・ロティの胸にいだかれた明子のような甘美な思い出が、だれにも期待できたとは考えにくい。

(大丸 弘)