| テーマ | メディアと環境 |
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| No. | 716 |
| タイトル | 交通 |
| 解説 | 明治となってから、女性の生活に生じた変化のひとつに、外出の機会がふえたということがある。主婦が日課のように日々の小買いものに出かけるようになるのは、ご用聞きや振売の商人がすくなくなり、また女中をおく習慣の減ってきた関東大震災(1923)以後のことだが、それよりかなり前に、化粧や着るものに気をつけて家を出なければならない、少しばかり遠出の機会や場所が増えたのだった。職場への通勤もそのなかに入る。そしてそれを助けたのが大都市の、市内交通手段の整備だ。 市内交通整備の第1段階は、人力車の急速な発展だった。人力車にあたる交通手段は江戸時代にも駕籠(かご)があった。明治初年の1868年、ごく短期間で、発明されたばかりの人力車が駕籠にいれ代わったのをみると、よほど大きな利点があったのだろう。運賃の点では、1884(明治17)年の東京案内には「一里五銭が定則なれども乗客車夫相対あり多く定めがたし」とある。一里といえば、市内に住んでいる人ならたいていの場所には行ける距離。 1872(明治5)年には、東京-横浜間、じっさいには汐留新橋駅と桜木町駅とのあいだに、官設の蒸気鉄道が開通した。途中に品川、川崎、鶴見、神奈川の4駅が設けられ、新橋横浜間は53分、午前8時が始発で、午後6時の最終列車まで1日9本、4両連結が基本だった。4年後には7時始発、11時15分終発までの13本にふえている。運賃は新橋横浜間が上等で1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘、上等は下等の3倍という大きな開きがあった。明治時代は東京人にとって、横浜見物はけっこう楽しみだったようだ。横浜駅を降りるとまっすぐの広い路、本町(ほんちょう)通りが居留地までのび、右側に並行する弁天通りにはめずらしい舶来商品がならんでいる。ある意味で銀座通りと横浜の本町通りは一直線に設計されていた。銀座にさきがけて、日本最初の街灯がともされたのはこの本町通りだった。 名古屋-神戸間の、関西方面の鉄道敷設の進捗にくらべ、なぜか遅れぎみだった横浜以西の延伸は、1887(明治20)年になって国府津までが開通、途中の大磯駅開業は、人気の海水浴の客にはよろこばれたろう。そして翌年には御殿場廻りで浜松まで延伸され、箱根・伊豆方面の湯治客のためには大いに役立った。こうして新橋-神戸間の全通は、1889(明治22)年7月。所要時間は新橋-大阪間が1898(明治31)年で約13時間、新橋京都間の運賃は、下等で3円29銭、大阪までがおなじく3円56銭。 東京の都心部には、人力車と並行して乗合馬車が営業をはじめた。1882(明治15)年には鉄道馬車の運行もはじまった。しかしどちらも路線は銀座通りと、その南北への延長が中心だったから、市の周辺部に住む人にはあまり関係はなかった。公共の交通網が横方向――東西にもひろがりはじめたのは、鉄道馬車の後をうけた市内電車と、官営山手線の発展のおかげだった。 市内電車は最初いずれも民営の、東京電車鉄道(電鉄 1903~)、東京市街鉄道(街鉄 1903~)、東京電気鉄道(外濠線 1904~)の3社が競争した。やがて3社が合併し、そのあと1911(明治44)年に東京市が買収して東京市電となる。夏目漱石の『三四郎』(1908)のなかで、野々宮さんが「この二三年路線が無暗に増えたので、車掌にいちいち聞かなければ乗り換えができない」と言っているが、路線の発展はそのあと、大正期に入ってからがいちじるしかった。電車の台数が不十分だったため、市電はたいてい満員で、冬など吹きさらしの安全地帯で、男性は外套の襟をたて、女性はショールを口のあたりまで巻きつけて、なかなか来ない電車を待ちつづけている、それはたしかに、この時代のひとつの情景だった。 山手線が今日のような環状運転を開始したのは、大震災後の1925(大正14)年だった。東海道重視の官設鉄道を補うかたちで、民営の東京鉄道がはやくも1883(明治16)年から、上野以北と、東京周辺部に路線を開設した。東京鉄道と、中央線の前身である甲武鉄道がともに国に買収され、日本国有鉄道の一部となった1906(明治39)年の時点では、環のほぼ70パーセントができあがった状態だった。武蔵野のひろがりにむかって、郊外の生活を求めていった東京人にとって、山手線とそれに連結した中央線は、彼らをしっかりと都心に結びつける役割をもっていた。 東京での乗合自動車――バスの営業は、関東大震災で市営電車が壊滅的打撃をうけ、早急な回復がのぞまれなかった、その代替としての登場だった。市電が回復してもそのまま市バス事業が続けられただけでなく、民営のバス会社も現れているのは、線路を敷設することも架線を張ることも必要ないという、建設費の問題もあったろう。それに1920年代半ば(大正末)という時代は、自動車はまだ数すくなく、きれいなバスは街のモダンな点景でもあった。角ばった大きな車体の市電には、男性の車掌が乗務しているのに対し、スマートな丸っこいバスには、赤襟といわれた洋装の、若い女性の車掌さんが乗って、オーライなどという「英語」を使うのだ。洋服が着られるというので、バスの車掌を志望する娘さんもいた。 とはいうものの、バスの乗り降りは、錦紗のきものの裾を気にする和服の奥さんがたには辛かった。その点は市電もそう変わりなかったが。この時代は、設備や機械の側の、ということは事業者の側の、そういう配慮がごく乏しかった。かつて盛んに指摘され、すでに忘れられかけていた和服の改良問題が思いだされた。しかしもうこの時代、毎日駅の長い階段を登り下りし、電車やバスのステップを踏まなければならない職業婦人が、袴などを穿くわけもなかった。職業婦人の洋装化は、朝夕の通勤もまた職業生活の一部、という事実にももとづいている。 東京市内でいえば、大川(墨田川)の数カ所の渡し船もだいじな交通手段だった。しかし渡しを描いた絵や写真を見ても、なぜか女性のすがたはあまり見られない。たくさんの渡しのなかで、築地明石町から佃島へ通う佃の渡しは、第二次大戦後の1964(昭和39)年までつづいていたとはおどろく。もちろんそのときは、桂文楽が竹屋の渡しで巧みに描写したような櫓をつかっていたのではなく、ポンポン蒸気だったのだが、それでも明治といわないまでも、「戦前」がまだこの時代まで残っていたような印象だ。 その一方で、1920年代後半(昭和初期)には空の旅が営業を開始した。「戦後」もまた、昭和の初めにはじまっていたのだ。欧米同様、わが国でも航空機の利用はまず郵便輸送から着手され、本格的な旅客輸送の開始されたのは1929(昭和4)年、東京-大阪-福岡(大刀洗)間だった。例によって新聞小説作家はさっそく、3年後の[朝日新聞]連載「暴風帯」(下村千秋作 1932/5/12~)に、颯爽たる飛行服の女性を登場させている。 (大丸 弘) |