近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ メディアと環境
No. 711
タイトル 盛り場/行楽地
解説

都会に住む者の幸せのひとつは、人出でにぎわう場所をもっていることだ。そこには眼を愉しませるものや、欲望を刺激するものがある。人と連れだってゆけば、新しい話題のタネが見出されるかもしれないし、ひとりで歩いても、ゆきずりの、大勢の人に見られる自分になれる。それでいて、その人目を気にしないで済むところも、自分たちだけになれるところもある。

東京も大阪も、開化以前から物見遊山の場所は豊富にもっていた。落語のまくらでは殿方のおたのしみは吉原、御婦人方のおたのしみは芝居(コンニャク、芋、唐茄子とつづく)という。しかし場末のけちな緞帳芝居まで入れても、1日1回だけ興行の芝居小屋のわずかな数では、江戸の女がそれほど芝居を見ていたとは考えられない。女性たちが家の外にもっていた愉しみはなんだったのだろうか。

『東京風俗志』(1899~1902)は、「第11章 遊嬉賞翫」のなかに第4節「四季の遊賞」をもうけて、季節ごとの遊覧の場所を示している。2月の梅見からはじまって、17種類が列記されているなかで、一般的なのは4月の桜狩(花見)、潮干狩、7月の両国の花火、8月の海水浴、秋の菊人形だろう。しかし女性たちにより身近だったのは、御利益が多いという神社の祭礼や縁日、寺の御開帳だったはずだ。縁日は、湯上がりの浴衣姿でぶらりと出かける距離に、毎晩1、2カ所はあった。それに対して、大勢の参詣者を集めた成田のお不動さん新勝寺、川崎大師といわれる平間寺、高尾山薬王院などは、いずれもあたらしく開通した私鉄電車を利用して都心からは一日がかり、よい保養になったろう。

東京市民に与えられた新しい外出の慰安は、市内数カ所の公園と、各種の展示会、博覧会だった。すでに1873(明治6)年正月に、名勝区旧跡など、大衆遊覧の場所に公園を設ける、という公園法が公布され、東京ではその3月、浅草、上野、芝、深川八幡、飛鳥山の5カ所に公園が生まれた。もっとも公園が設置される場所は、もともとお参りやお花見に人出の多い場所だったから、あたらしくできた、なにかと小うるさい規制には違反者が絶えなかった。

一、荷車其他総テ遊歩ヲ妨グへキモノ且葬式等ハ屏風坂通リ及ビ弁天前通ノ外通行スへカラス 四、諸芸ヲ演ズル者又ハ乞食ニ類似ノ者立入ルヘカラス 七、木拾イノ者立入ルへカラス 十三、草原並腰掛等ニテ睡眠スへカラス
(→年表〈事件〉1882年1月 「横浜市中区山下公園に公園掲示公布」【宮内省 達】番外 1882/1月)

そんな規制のない遊園地も、江戸時代以来の場所も含めて少なくなかった。向島の百花園、菖蒲で有名な堀切、盆栽栽培業者の集まっている染井、その多くは寺や、なにかの社に関わりをもち、遊んだついでといってはもったいないが、お参りも兼ねる、という場所が多かった。鷽(うそ)替えの亀戸天神様、洲崎の弁天様、雑司ヶ谷の鬼子母神様、新しいところでは九段の招魂社、などなど。

不特定多数のひとを対象にした展示会、ないし展覧会風の催しは、江戸時代にもなかったわけではないが、直接には、1867(慶応3)年のパリ万博、1873(明治6)年のウィーン万博への出品がきっかけ、あるいは参考となって、西南戦争の年1877(明治10)年に上野で、第1回の内国勧業博覧会が開催された(→年表〈事件〉1877年8月 「第1回内国勧業博覧会」1877/8/21)。勧業博覧会は1903(明治36)年の第5回までつづき、産業や商業に大きな影響を残しただけでなく、大衆の新しい知見に役立ったといわれる。つまりそれだけの大きな見物客動員があったのだ。

その貪欲な見物人は、第1回勧業博とおなじ上野の山で、1882(明治15)年に開催された第1回内国絵画共進会も見逃していない(→年表〈事件〉1882年10月 「第1回絵画共進会」東京日日新聞 1882/9/29: 2)。狭い会場だったが、最初の10日間で16,835人の入場者があり、20代の天皇は会期中二度訪れている。上野の絵画展の大衆人気は、1907(明治40)年にはじまる文展の時代までつづき、そのいわば天下の遊民をかきあつめた観客層の幅を知らなければ、出品された裸体画、裸体像に対する、その時代の警視庁の神経質さは理解できない。

身内の冠婚葬祭と、めったにない日本橋あたりの店での買い物以外、遠出の機会のなかった女性たちが、新しい交通手段を利用して、日々変わってゆく街の空気を吸う、その行く先がひろがり、またあたらしくできたのだ。もちろんそれは、乗りものを利用して女学校に通う、何年かの経験をもっている女性が先にたったろう。その女学校の卒業者たちには、学校時代の友人たちという、新しい交際の対象ができていた。生まれ育った町内かその近辺でのつきあいよりも、交際圏ははるかに広かったろうし、さらにひろがってゆく可能性ももっていた。

東京、大阪の場合であると、1920年代(ほぼ大正中期)までには、市の周辺域に住んでいる人であっても、路面電車の発展によって、乗換え切符をつかえば、1枚の乗車賃で銀座辺に、また心斎橋あたりに出てくることができるようになった。1930年代(昭和10年前後)になると、市内だけでなく郊外まで延びたバス路線や、私鉄網のほか、市内均一料金のタクシーができて、1円銀貨をだす余裕さえあれば、大きな買いものも重い思いをせずに、都心からはなれた家の玄関まで車を横づけできるようになった。

こうした交通手段の変化が買い物客をすべて都心にあつめ、寂れる周辺地域の商店街とはうらはらに、心斎橋筋、銀座通りは、つねに人波にうめられ、ショーウインドウを見て歩くだけで都会を満喫できる、新時代の行楽の場、ひとのなりふりを見、自分がひとに見られる舞台となった。

その行楽の空間を凝縮したのがデパートの売場だ。東京でもほかの大都市でも、呉服屋から転身した百貨店は1930年代(昭和戦前期)になると、単なる商業施設ではなく、博覧会や展覧会、さらには屋上には小公園の機能まで備えた、大都市そのもののミニチュアになっていた。人は売場いっぱいに飾られた商品と、食べたいものがなんでもある大食堂の喧噪のなかで、みちたりた暮らしの、こころよい錯覚を愉しんでいたのかもしれない。

(大丸 弘)