近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ メディアと環境
No. 704
タイトル プレゼンテーション
解説

プレゼンテーション(presentation)は欧米のファッション辞典のたぐいには出ていないことがある。おそらく意味が広すぎる、また多義的なためだろう。プレゼント(present)は提供するとか、展示する、発表する、という意味になる。日本では展示会とか発表会、ファッションショー、あるいは広告宣伝ということばがすでに使い慣れていて、とくに必要がないためか、プレゼンテーションなどと言っても、ちがう意味にとられそうだ。ここでは(1)商品の宣伝広告、(2)陳列/ディスプレイ、(3)発表/展示会、にかぎろう。

(1) 江戸時代の商品宣伝の主役は看板だった。主役とはいえなくなっても、開化以後、現代の企業も看板に熱心なことはそう変わっていない。変わったことといえば、江戸時代の看板は商家の軒先看板だけだったが、開化以後は自分の家と関係のない場所に、電柱やビルの屋上、また田んぼのなかに大きな立看板をつくったりしていることだ。看板に熱心なのは香港や台湾の諸都市にも共通するから、アジア的特性なのだろうか。ヨーロッパ諸国になると、車窓の風景でも、街の景観としても看板はあまりめだたない。ただし繊維・衣料品・化粧品関係は看板による商品名の宣伝にはむかないらしく、もっぱら企業名の知名度向上に力がいれられている。

古い話だが染織品の知名度向上で舞台俳優の手を、いや口を借りたのが、有名な伊勢藤堂家の亀甲縞の売りひろめだ。役者が舞台上でもちいた衣裳の色柄や髪飾が人気になって流行ることはめずらしいことではない。岸恵子の真知子巻きのように。亀甲縞の場合は藩の財政を救うために、売れ先のなかった在庫の木綿糸三十万反でめずらしい縞柄を織り出し、たまたま大阪に乗り込んでいた二代目市川團十郎(1688~1758)に、舞台上での宣伝を懇願したのだ。侠気(おとこぎ)のある團十郎は、亀甲縞を七五調のセリフに載せて宣伝の一役を買った。

(2) 商品の陳列法はもちろん、商店建築の構造変化と密接に関係する。明治初めの日本の店舗はすべて、間口何軒という広さがほぼそのまま開けはなされていた。夜だけ閉める雨戸は昼間はどこかにしまわれている。日除け埃除けは地厚の暖簾だけ。こういう店構えは現代でも別にめずらしくはない。八百屋、果物屋、魚屋、菓子屋など、店頭に商品を数多くひろげ、その豊富さで客を呼びこむ業種にはこのスタイルがむいているのだろう。

陳列方法のイノベーションの中心は、たくさんのガラスの利用だった。正面入口をあけっ放しではなくガラス戸をたてる。このガラス戸には気のきいた模様とか商店名が入れられる。商店にかぎらず、オフィスでも曇りガラスを入れて内部の採光をこころみた。

飾窓、すなわちショーウインドウの採用は、かならずしも高額でなくとも、購買意欲をそそる必要のあるような商品にむいている。1902(明治35)年という段階では、ある流行雑誌はこんな観察をしている。

市中の商店に飾窓を附けて、新柄物、新着品などを、具合よく陳列して、通行人の眼を惹く工夫をするのが、大分流行となった。日本の商家も追々進歩はして来る。西洋では此の陳列方で飯を喰っている専門家があって、各商店の依頼に応じて、一週間目とか、十日目とかに得意先を廻る。そして呉服店、小間物店等それぞれ映りの好き様目先を変えて、人目を惹くことに勤めるのであるが、日本の商家には未だ夫れ程の奮発力はない。
(【流行】(流行社) 1902/8月)

時代はとんで1910年代、20年代(大正~昭和初年)になると、中心商店街のショーウインドウは、まるで大都会そのもののショーウインドウであるかのように、ペ―ブを歩く人にとって欠かせないものに成長した。とりわけ夢といっしょに買うものだった洋品洋服類は、子ども服もふくめて、ショーウインドウむきだった。デザイン担当者の才能ひとつでは、商店街の冷たいペーブとガラス一枚を隔てた空間の中に、ときには等身大の生き人形による、別世界を生みだすことができた。

ガラスの利用のもうひとつは店内のショーケースだ。ショーケースの工夫によっては、きわめて高額の商品でも安全に陳列することが可能になった。その晩の飯代も危ないルンペンでも、横目で100万円のエメラルドを鑑賞することが許される。宝石や貴金属に対する女学生たちの眼が、どれほどうるさくなったことか。

ショーウインドウを含めてこのようなディスプレイの発展は、大都会でのデパート発展史として叙述されることが多い。しかしなにかにつけて話題にされる三越白木屋とちがって、ところは銀座でも一小売店の場合であると、ニュースとしてどれほどとりあげられるだろう。たとえば、店の前面全体をガラス引戸として評判になったのは、1898(明治31)年の京呉服問屋市田だったという記録があるのだが(→年表〈事件〉1892年x月 「京呉服問屋市田、日本最初のPR誌創刊」)。

(3) 1932(昭和7)年の4月24日、東京日比谷公会堂で日本初の〈洋装レヴュー〉が開催される、と新聞は伝えている(→年表〈事件〉1932年4月 「本邦初のファッション・ショウ」時事新報 1932/4/24: 6;1932/4/28: 6,7)。主催は時事新報社とジャパンアドバタイザー社。この催しの目的はつぎのように説明され、はなはだ教育的、高踏的といえる。

1) 洋装についての理解を深め、正しい着方を教える。
2) 日本人向きの洋装を創造する機運をつくる。
3) わが国がいかに勝れた洋装用品をつくれるかを外国人に紹介し、且つ外国人の誤った東洋趣味を匡正する。

百貨店としては三越白木屋松坂屋、そのほか有名洋裁店、洋装店、洋裁学校、美容院等が参加しての華々しいショーで、満員の盛況だったそうだ。

ただし、ファッションショーと銘うったものなら、すでにこの5年以前、1927(昭和2)年9月21日より3日間開催された、三越のファッションショーもよく知られている。宣伝によると、「水谷八重子嬢、東日出子嬢、小林延子嬢の三女優が、当店特製にして今秋流行の魁たる〈染織逸品会〉の新衣裳を着け、艶麗花の如き姿で、ホールの舞台に現れ、優美な舞踊を演出致します」とある。三越の染織逸品会は例年の行事なので、ショーはその添えものであるようだ。女優の舞踊お目当ての客も多かったことだろう。また、ファッションショーというからには、洋装もあったことと思うが、逸品会の関連である以上和装中心ではなかったか。

1932年の洋装レヴューの当日、[時事新報]の見出しは、「日本一流の美容家 モデル嬢の競演」だった。この時代、世間の耳目は耳なれないファッションショーなどよりも、出演するマネキンたちへの興味が大きかったはずだ。

百貨店、洋品店などのディスプレイがあたらしくなって以後、売場やショーウインドウに飾られる等身大の人形はすでになじみ深かったが(→年表〈現況〉1927年9月 「欧米諸国に於ける生きたマネキンの紹介」国民新聞 1927/9/17: 附録2)、生身の人間をつかうようになったのは1928(昭和3)年ごろであるらしい。その年の[読売新聞]は「時代のトップを切る―動く人形〈マニキン〉」という解説記事をのせ、今春上野の大礼博に出たのが最初、と説明している(→年表〈事件〉1928年11月 「わが国最初のマネキン」読売新聞 1929/8/16: 3)。大礼博とは昭和天皇の即位を祝っての御大礼記念国産振興東京博覧会(3、4、5月)。

1928、1929(昭和4)年当時のマネキンは、美容全般のアドヴァイザー的役割も期待されていたらしく、そのことがやがて紛争のもととなる、美容家・山野千枝子主宰の「日本マニキン倶楽部」への結びつきの理由だったと想像される(→年表〈事件〉1929年3月 「東京マネキン・クラブ結成」読売新聞 1929/8/16: 3;→年表〈事件〉1929年6月 「東京マネキン・クラブの紛争表面化」読売新聞 1929/6/25: 3)。

(大丸 弘)