近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ メディアと環境
No. 703
タイトル 新聞/雑誌(20世紀はじめ)
解説

1910(明治43)年までに創刊され、たくさんの若い女性読者を獲得した【婦人画報】、【婦人世界】、【婦女界】は、当然豊富な身装記事をのせていたが、それよりやや遅れて出発した【主婦之友】(1917~)、【婦人倶楽部】(1920~)のふたつは、かゆいところへ手のとどくような実用記事を提供して、主婦を中心とする女性読者を奪いあった。いくぶんハイブロウな視点をもっていた【婦人之友】(【家庭之友】の改題)(1903~)も、実用性という点ではその側に入るだろう。

裁縫技術に関しても、一つ身から入って、袷、綿入とすすみ、羽織、被布、帯、袴から夜具のたぐいにまで到達する王道の修業にたいして、足踏ミシン1台あれば、裁縫になんの経験もない若い母親が、雑誌の綴じこみの型紙をつかって、赤ん坊のハイカラなおくるみから、夏に家で着るキモノスリーブのワンピースまで簡単につくることができた。女高師の教授たちの編纂した権威ある裁縫書の価値を否定はしないが、教科書参考書風記述のもつ、ある種の不親切さへのあきたらなさはどうしようもない。

1930年代(昭和5年)以降は婦人雑誌が付録のかたちで、あるいは独立した刊行物として、カラー写真など、人気女優さんがモデルの図版を豊富につかった、それでいてハイレベルの裁縫書が世に送りだされるようになる。主婦之友社の「花嫁講座」として1939(昭和14)年に刊行された『和服裁縫』、『洋服裁縫』(1940)もそのひとつ。

より広範囲な日常の衣生活に関しては、1910年代以降(大正後半~)、頁数を増やした大新聞が、女性読者の獲得を狙って設けた家庭婦人欄が大きな意味をもった。なかでも[読売新聞]が1914(大正3)年4月からはじめた「よみうり婦人付録」(のち「よみうり婦人欄」に改称)は、正力松太郎新社長による購読者大増加運動の中核アイディアとまでいわれた。それまでの新聞の流行記事といえば、そういう分野にはほとんど経験のない取材記者が、百貨店の宣伝のお先棒を担ぐような聞き書きをもち帰ることがふつうだった。新しい家庭欄の執筆者や取材対象者は当然その世界の専門家だったから、ときには新聞とのコネが気になることはあっても、それなりに手応えのある内容が多かったものだ。

とりわけ大都会で、女性の洋装が日常めだつようになったのは、1930年代以降のことだ。1937(昭和12)年に、洋装嫌いの作家水木洋子はこんなことを言っている。「和服が美しいといい、幾ら好きでも、此頃の女の子は、体格が承知しなくなっている。(……)だんだん和服の似合わない女性が多くなってくる」(→年表〈現況〉1937年3月 水木洋子「女性美と洋装」【新装】1937/3月)。改まったときこそ着慣れた和服に着替えたが、いちど簡単服の味を覚えた日本の女性は、かなり年輩の人まで、日常は洋装ですごす人の方が多くなっていた。ひとつの大きな理由は、眼が洋装に慣れて、夏のワンピースや、冬のセーターにスカートといった恰好を、とくに洋装と意識することもなくなったためだろう。眼が慣れた理由はいうまでもない、日々眼にする新聞、雑誌の写真や、映画の情報量の多さにちがいない。

1930年代後半(昭和10年代前半)に入ると、しばらくやや停滞気味だった流行雑誌が復活した。しかしそれはあの三越の【時好】や文芸雑誌の流行記事とはちがって、見てまなぶ、あるいは見て愉しむ雑誌に変貌していた。ほとんどがイラストレーションで埋められた【ファッションクオータリー】のような古いタイプもあったが、1933(昭和8)年創刊の【洋装】、1936(昭和11)年の【洋裁春秋】、【洋装クラブ】、【ル・パニエ】、【装苑】、【スタイル】など、大きな読者をつかんでいた大衆グラフ雑誌【アサヒグラフ】同様に、写真本位の記事が多かった。ただし洋装に眼が慣れるためには、なにもそれがファッションフォトであったり、流行雑誌である必要はない。むしろ「ふつうの人」のすがたであったほうがよいのかもしれない。なんでもないふつうの洋装に見なれることによって、ある朝、自分や、隣の奥さんが簡単服に変わっても、周囲のだれもがあやしまない時代になっていた。

その意味からいえば、動きをもった映画のなかでの洋装イメージは、よりつよいすり込みだったはずだ。1930年代、40年代(昭和戦前期~戦後にかけて)の日本映画、そのなかに登場した、どちらかといえばモダンなタイプの女優たち――桑野通子、霧立のぼる、轟夕起子、原節子らの洋装は、女性たちの日常の着こなしや、気持ちのうえでの洋装慣れに、どんなに役立ったことだろうか。外国映画といえども、ストーリー次第ではそれほどの距離感はなかったろう。《巴里祭》のアナベラなどは、そんな意味での日本人好みのアイドルだった。

第二次大戦以前でも、外国のファッション雑誌はかなりの量が入っていたらしい。洋裁学校にかぎらず、女専でも洋裁コースをもつところには、たいていはヴォーグ(VOGUE)やハーパーズバザー(HARPER'S BAZAAR)は入っていた。関東大震災前の1922(大正11)年にこんな記事がある。

「丸善」に行って見て更に「本当に子供洋服の流行は深く真面目になりつつある」と云うことを的確に知ることができた。それは近頃米国から来る子供洋服の雑誌が専門家ばかりでなく、家庭用にどしどし売れ始めた事である。
(→年表〈現況〉1922年4月 「子供洋服の研究―流行におくれぬ外国雑誌」国民新聞 1922/4/17: 5)

学校や企業以外のファッション誌の購読者には、洋裁店経営者が多かったにちがいない。ランバンもバレンシアガも知らない奥さんが雑誌の写真をゆびさして、コレ、といえば、フォブール・サントノレ製と、それほど見た目のちがわないブラウスを縫い上げる技術を、もっている店主もいただろう。ヨーロッパまでは6週間の船旅をしなければならない時代だったが、地方の女専の洋裁の先生や、小さな洋裁店の後継娘などに、短期間であっても、パリのオートクチュールで学んだ女性は結構いたという。

(大丸 弘)