| テーマ | メディアと環境 |
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| No. | 712 |
| タイトル | 芝居見物 |
| 解説 | 近代80年の演劇界は、九代目市川團十郎(~1903)、五代目尾上菊五郎(~1903)、初代市川左団次(~1904)らによる歌舞伎芝居の隆盛によって明けた。「団菊左三優の顔合わせあれば、天下無二の大演劇として、満都を振動せしむ」とは、『東京風俗志』(1899~1902)の著者のことばだが、ほぼ同時期に3名優が没し、時代が大正と変わっても昭和と改まっても、九代目、五代目の舞台を偲ぶ人の想いは熱く、なにかというと故人との比較論がでて、「團菊じじい」と笑われた。 その時代、新しい演劇への模索や冒険がなかったわけではない。すでに1880年代末(明治20年代初め)には壮士劇とよばれた書生芝居がはじまり、やがて川上音二郎、伊井蓉峰(いいようほう)によってようやく商業演劇らしいレベルに達してから、1890年代後半(明治20年代~30年代初め)には河合武雄、喜多村緑郎らを加えて、新派の古典時代に入っている。 ただし演劇史の上ではそうであっても、その時代に生きている大衆の耳にも眼にも、芝居といえば、それは歌舞伎座や新富座で演じられる、あるいは土地の人だけが知って入るような貧弱な小屋がけの舞台の、切られお富や弁天小僧だったにちがいない。 新派の芝居は河合、喜多村の時代から、評判になった新聞小説を脚色、上演することで、いくつかの当たり狂言をもつようになった。旧劇、ともいわれるようになった歌舞伎のファンが新派を見なかった、というわけではないし、芝居ならなんでもという人も多かったろう。しかし歌舞伎座や新富座の芝居見物の愉しみは、なにも舞台の上の筋書きを追い所作を見るだけではなかったのだ。 1878(明治11)年の8月に新築の新富座が、はじめて夜5時開演の夜芝居をはじめるまで、芝居というのは昼間だけのものだった(→年表〈事件〉1878年6月 岡本綺堂「ランプの下にて―明治劇談」『明治演劇年表』1935)。開場の一番太鼓は夜明け前にうつ。一番目狂言のはじまるのは朝のうちだ。この辺のことは落語の〈芝居風呂〉によく説明されている。芝居見物は一日がかりの遊山だった。1886(明治19)年になって警視庁は、劇場の興行時間を8時間に制限している。 遊山気分ということは、芝居茶屋のありかたにも現れている。江戸の三座の時代から、明治になって築地の新富座、木挽町の歌舞伎座まで、芝居小屋の周辺にはかならず、なん軒もの芝居茶屋がはでな幟(のぼり)をたてて、客を呼びこんでいた。目的とするお愉しみの前、つまり奥の院に詣でる前に拝殿を設けるしかけは、相撲見物にも、吉原での遊興にも共通する。女の人のなかには、ここで湯に入って着替えをする人もあり、昼どきにはいったん茶屋へひきあげて食事をとる人が多い。見たくない幕があれば、そのあいだ茶屋で遊んでいてもいい。そんなときにはからだのあいている役者が、お客様のお相手をすることもあるだろう。 女の客と役者のとりもちは、茶屋のだいじな仕事だったらしい。茶屋と役者たちとは密接な結びつきがあった、というより、血縁関係を含めて、むしろ一体といってもよいくらいだった。役者の屋号のいくつかが、もともと茶屋の名前だったという事実も、それを示している。 芝居の見物席はだんだんと、平らな床(ゆか)から椅子席に変わっていった。1889(明治22)年、木挽町にはじめて歌舞伎座が建設されたときは、真ん中の土間も両側の桟敷もすべて床だった。ただ、桟敷の床は上げ蓋式になっていて、掘炬燵のように腰掛けることもできた。これは洋服の男性のため、といっているが、外国人見物客への配慮もあっただろう。桟敷席でお見合い、というのがはやった時期があった。2階には洋風の休憩室が二つあったので、文字どおりのお見合いができた。休憩室は欧米の劇場、ホールのフォワイエ(foyer)をまねたのだろう。 歌舞伎座は1921(大正10)年に漏電で焼失(→年表〈事件〉1921年10月 「歌舞伎座全焼」1921/10/30)、関東大震災後の1925(大正14)年に再建されたときは、全席椅子席となった。それまでの平土間は升席といって、幅ひろい渡り板で縦横にしきられ、ひとつの区画に4、5人ずつ客をいれる。渡り板は、茶屋の出方(でかた)と称する男衆が、注文された食べものや土瓶をもって、ここを器用に渡るところから名づけられた。 平土間はまったく勾配がないために、うしろの人は見にくい。両花道の外側に高土間ができて、そこだけは桟敷のように見やすくなったが、中央の平土間の見にくさは変わらない。役者の一挙手一投足に細かな注文をつける見巧者の連中は、多くは正面奥の大向こうに陣取っていた。新築の歌舞伎座の入場料は、桟敷一間が4円70銭なのに対し、平土間の升席はひと升が2円80銭、高土間は中間の3円50銭だった(→年表〈事件〉1889年11月 「歌舞伎座新築落成」『歌舞伎年表』1889/11/21)。 平土間の升席の客は、出方の運んでくる弁当をとる者も、持参の者もある。映画《無法松の一生》(稲垣浩監督 1943)では、車夫の松五郎がここに七輪を持ちこんでいる。歌舞伎座や新富座ではまさかそんなことはできないだろうが、東京でも場末の小芝居になると、舞台に背を向けて酒を酌み交わしている連中や、子どものおしめを替えている女までいたそうだ。関西では下足をとらなかったので、外の履物をここまでもちこみ、けっこう泥だらけの床もあったらしい。 1930年代(昭和10年前後)になるころには、茶屋制度も、劇場や芝居小屋の土間、桟敷も消滅した。けれども明治生まれの女性のなかには、椅子が苦手な人も多かった。そのため一部の劇場、映画館では、こんどは逆に、2階に追いこみの床席――安ものの絨毯などを敷いた――を残したところもある。客は履物を入れた袋を提げてそこにすわり、《愛染かつら》などを鑑賞した。 (大丸 弘) |