| テーマ | メディアと環境 |
|---|---|
| No. | 715 |
| タイトル | 自動車 |
| 解説 | 東京では関東大震災後の1924(大正13)年、復旧のおくれている都電の代替として発足した乗合バス事業によって、大戦以前の都市交通網はほぼできあがった。ただし青バスとよばれた民営バスは、すでに5年前から運行をはじめ、好成績をあげていた。都営バスは最初は一時的な運行の予定だったせいか、車体も粗末だったし、小柄な女性にとってはステップの高すぎるのに悩まされたらしい。都電の場合は、線路沿いにきづかれた10センチほどの高さの安全地帯に助けられたが、バスはたいていの場合、地面から約90センチもあるステップまで脚をあげなければならない。そのため和服で赤ん坊でも片手に抱いている女性は、もう一方の手は握り棒を掴んでいなければならなかったから、あられもないすがたになった。高さ35センチという、ステップの低いバスが導入されたのは、それから半世紀以上経った1985(昭和60)年のことで、もうその時代には街に和服の女性などほとんどいなかった。 乗合バスが実現した1924年より、わずか16年前の1908(明治41)年、東京の京橋橋上を1時間に通過する車馬の数を調査した記録がある。京橋を選んだのは「東京の中央道路でもっとも交通頻繁な銀座の北端と日本橋の中間」という理由から(読売新聞 1908/5/5: 3)。 電車221台、自転車106台、人力車50台、荷車50台、荷馬車27台、計563台 3日間の調査のうち、ここに示したのは最初の日。この翌々日は自転車が103台と倍近くになっていて、これはその日が月末の勘定日の30日だったため、と推測している。この数字で印象的なのは自動車が1台も通っていないことだ。 自動車は前年の1907(明治40)年2月には、最初の〈自動車取締規則〉が公布された(→年表〈事件〉1907年2月 「自動車取締規則発布」1907/2/19)。「鉄道マタハ軌道ニ依ラズシテ原動力機ヲ用ウルノ自動車ニ適用ス」とある。その2年後の1909(明治42)年1月に、「現在東京で実際に運行している自動車の数は39台」と言うレポートがある(→年表〈事件〉1909年1月 「自動車の数」国民新聞 1909/1/3: 5)。1時間に1台も自動車が通過しなかったというのも、当然といえるだろう。 日本に自動車が入ってきたこと自体は、すでに1902(明治35)年10月に三井呉服店で、商品の配送を従来の馬車から自動車に切替える予定とあるが(→年表〈現況〉1902年5月 「三井呉服店、呉服物の配達に自動車」朝日新聞 1902/5/15: 5)、これは全く例外的といってよい。 1918(大正7)年、東京市の土木課長の「最近自動車の発達が著しく、現在府内に1,250台の自動車があるが、主に砂利敷きの市内の道路は、自動車が疾走すると、5、6寸から1尺くらいの穴を無数に明けてしまう。もはや自動車時代に入った以上、政府が補助を出して道路の改良をする必要がある」という談話が報道された(→年表〈現況〉1918年1月 「お恥ずかしい道路」朝日新聞 1918/1/4: 3)。一官吏の発言だが、「もはや自動車時代に入った」という認識は大きい。1920年代(大正末~昭和初め)に入ると自動車の増加は加速度的に増加する(→年表〈現況〉1927年11月 「急激な勢いで増加する自動車」国民新聞 1927/11/18: 6)。 この間、1912(大正元)年には東京に、料金メーターを搭載したタクシー自動車株式会社が発足し、最初は上野、新橋、東京各駅での営業で、フォードのT型6台だけだったが、10年後には500台を超える車両を使うまでになる。料金は最初の1マイルが60銭、以後1マイルごとに10銭増し。やがて流しも現れた。メーターをつけていない個人営業も多く、市内は定額の1円と称して一般には円タクとよばれていたが、実際の値段は相対ずくできまった。 タクシー、ハイヤーが生まれたことは、盛装した女性にとっては福音だった。もちろんその日稼ぎの階級には縁のない話ではあっても。この時代のタクシーはたいてい運転手のほかに、エンジン起動のための助手をのせていたので、雨のときなどは降りる客に傘をさしかけたり、ぬかるみにシートを置いたりのサ―ビスをする車もあった。降りしなに、車の乗り降りにまだ慣れない女性は、着物の裾や高価な履物を汚してしまうことがあった。この時代になると都心のメインストリートには、たいていペイブの敷かれた歩道ができていたから、女性は外出に、下駄よりも流行の草履をはく機会がふえていた。その草履を守るために、雨にあえばタクシー代を惜しまない人もあったろう。 車の発展がおしゃれの様相を変化させたのは、もちろん日本だけのことではない。 三人に一人が自動車をもつアメリカで、自動車に乗って心持ちのよい服飾の案出されるのは無理のないことです。快速力の自動車にツバの広い帽子は禁物、婦人帽に次第にツバのなくなっていったのも、自動車の増加による点が多いのです。婦人服のスカートが短くなったのも、その一般は自動車に負うと見ることができます。自動車の速力は、すべての軽快な服装と調和する結果、スポーツ服を標準として作られるものが、もっとも近代女性に迎えられるわけです。 [読売新聞]のこの解説記事はまた、郊外に住む人たちにも都心での買いものが便利になったため、郊外や周辺小都市の商店が閉業に追い込まれている、とも報じている。 この時代の自家用車には無蓋車――オープンカーが多かった。スピード感をよりはっきりと頬に感じるためだったかもしれない。そのためかドライブを愛する女性は、ヴェールをかぶったり、あるいはスカーフを巻くスタイルが多くみられる。オープンカーでないにしても、和服で車の運転席に座るのは、どう見てもキッチュだった。 1920年代後半(昭和初め)以後、戦争の暗い影が翳しはじめるまでの短いあいだだったが、新聞小説には、自家用車を駆って湘南や箱根の別荘地、あるいは横浜の海岸通りのホテルに遊ぶ若者や、有閑マダムの生態がよくえがかれている(→年表〈現況〉1937年12月 「お洒落な町々―ニューイングランドあたり」【スタイル】1937/12月)。明るい陽の光のもとでありながら、オープンカーの運転席のふたりには、まるで密室のなかにいるような、強いられた親密さが生じる。ハンドルを握るとひとが変わる、とはよく聞くが、となりの助手席の娘にも、日頃とはちがう身がまえがあったかもしれない。 (大丸 弘) |