| テーマ | メディアと環境 |
|---|---|
| No. | 714 |
| タイトル | 自転車 |
| 解説 | 自転車も明治のかなり早い時期にわが国に入ってきて、最初は貸自転車が、もっぱら遊戯用として流行していた。総合誌【東京新誌】1879(明治12)年の第147号には、詳細かつ具体的にその乗りかたの説明があり、「宛(あたか)も馬に騎(の)るに似たり」とあって、遊園地などにあった貸し馬とおなじように考えられていたようだ。 やがて10年も経たないうちに、おそらく自転車の小回りのきく性能が評価されて、届け物の配達には欠かせないものになってゆく。買い手が商店に足をはこぶのではなく、ご用聞きが注文をとって、それをあとから配達する、という商習慣がまだ根づよい時代だった。 大阪府下は昨年十月頃より自転車流行し、商家の番頭手代小僧丁稚職人社会に至るまで、自転車に乗るもの頗る多く、中には市中の得意回りの小僧丁稚をして、自転車に乗じて奔走せしむる商家さえ少なからざる由 もうすこし後の時代になると、子供用の自転車も売りだされるが、この時代の自転車はほとんどがアメリカ製で高価だったから、子どもを小僧にだすような家では、自転車など買ってやれはしない。あたらしく奉公に出た少年は、まず自転車に乗る練習からはじめなければならない、といわれた(→年表〈物価・賃金〉1899年9月 「自転車の価格」【流行】(流行社) 1899/9月)。しかしいったん乗りこなせるようになると、通りを肩で風をきって走るのは、彼等にとってはいささか得意だった。おとくいさんの子どもに、「金どん、乗せて」、とせがまれたりもした。そういう子どもに誇りたいためもあって、片手をふところに突っこんで乗ったり、両手ばなしをして見せたりする。 大阪府にかなり遅れて、1898(明治31)年に、東京府は最初の自転車取締規則を公布する。そのなかには、第3条に「道路ニオイテ競争ヲスベカラズ」、第5条に「道路ニ於テ乗車ノ練習ヲ為スベカラズ」、第6条に「十二才未満ノ者ヲシテ、道路ニ於テ自転車ニ乗ラシムベカラズ」等の項がある(→年表〈事件〉1898年6月 「最初の自転車取締規則公布」【警視庁令】第20号)。べつにそうとばかり言うのではないが、縞のお仕着せを着た少年店員の姿が、この条項には二重写しになって見える。 その1898年の記録でみると、東京市15区内の自転車による事故は、死亡2名、重傷13名、軽傷190名、衣服物品の損傷329件、突き倒された人1,029人、とある(→年表〈現況〉1899年5月 「昨年の自転車事故件数」読売新聞 1899/5/15: 3)。自転車による事故で命に関わるようなことは少ないが、物品の損傷や転んだような事故はじっさいはこの数倍、起こっていたにちがいない。 自転車の転倒事故といえば連想されるのは、小杉天外の[読売新聞]連載小説『魔風恋風』(1903/2/25~ )だ。自転車の危険視からその存廃論が加熱したが、『魔風恋風』のスタートしたのはそれがかなり静まった時期だった。その間の1901(明治34)年には、1898年の自転車取締規則は全面改正され、きわめて具体的、微視的なものになっていた(→年表〈事件〉1901年10月 「自転車取締規則の全面改正」時事新報 1901/10/27: 5;『警視庁交通年鑑』1954)。たとえば両手放しを禁じたり、危険として自転車の乗車を禁じる急坂を、具体的に、九段坂、富坂、団子坂など13カ所の名をあげて指定している。またその第6条で「道路又ハ道路ニ面シタル場所ニ於テ乗車スルトキハ、袴、若ハ股引ノ類ヲ着用スベシ」とあるのは、主として和服着流しの男女の乗車を禁じるのが目的だろう。1897(明治30)年9月の[読売新聞]の「横浜便り」に、文金高島田の美人が居留地狭しと自転車を乗り回す、とある。こんな例はめずらしいにしても、男性の和服での自転車漕ぎも見よいものではない。 『魔風恋風』のヒロイン初野の場合は女学生だから袴を穿いている。けれども女学生の穿く袴はいわゆる行燈袴で襠をもっていない。つまり着流しの着物に比べて前が開かないというだけで、左右に分かれてはいないのだ。中央部分を低く造った女性用の自転車は早くから存在した。初野の乗っていたのが女性用だったかどうかについては、天外はなにも書いていないが、鏑木清方の挿絵では女性用らしく描かれている。 女性の自転車は『魔風恋風』とは関係なく、この時期さかんだった。東京では女性の自転車サークルである女子嗜輪会や、女子自転車倶楽部ができていた(→年表〈事件〉1900年11月 「女子自転車倶楽部発足」『自転車の一世紀』)。また天外は初野のイメージを、1900(明治33)年ごろに上野の音楽学校に芝の自宅から自転車通学していた17、18歳当時の三浦環(当時は柴田姓)から得たのではないか、と想像する人もある。初野の自転車の人気から、連載の翌々年に[都新聞]の調べたところによると、「女学生にて自転車に乗るものは案外に少なく、女子大学生の十二三人を頭にして、音楽学校の七八人、さては虎ノ門女学館はさすがその元祖だけありて、音楽学校と匹敵するほどなるが(……)」(→年表〈現況〉1905年7月 「女学生にて自転車に乗る者」都新聞 1905/7/16: 3)とある。少ないか多いか判断の基準はないが、〈魔風恋風〉が転倒事故による主人公のかなりの負傷からはじまっている以上、自転車通学はむしろ減少したという可能性もある。虎ノ門女学館が元祖、と言っているのは、この学校が一応モデルと考えられているため。 女性の自転車乗りが疎まれる理由は、着るものの構造だけではない。乗馬の場合、女性のためには古くから女鞍というものが存在した。脚を開いてものをまたぐという行為を、女性は避けようとしてきた。自転車のサドルは馬の背中ほど大きいものではなく、またぐというほどのポーズにはならない代わりに、股の内側がサドルに密着することになる。そのために自転車に乗る女性に対しては、卑猥なことをいって笑う男がいた。 時代ははるかのち、戦争の影響が色濃くなった1940(昭和15)年前後、ほとんどの女性はもんぺか、男性同様ズボンすがたになった。自転車って、こんなに乗りやすいものだったのね、彼女たちはそう言って笑っていた。東宝の轟夕起子の歌う、「お使いは自転車に乗って」が街に流れていた。 (大丸 弘) |