近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ メディアと環境
No. 706
タイトル チャンバラと男のイメージ
解説

異能作家の橋本治は『完本チャンバラ時代劇講座』という本のなかでこう言っている。「かつて日本の子供の大多数はこの遊びをしたのです。日本人の人格形成とチャンバラごっこというのは、どこかでかたく結びついている筈なのです(……)」。

昭和10年代生まれくらいまでの男の子は、ちょうどテレビ時代初期の少年が、変身!と叫んで仮面ライダーの恰好をしたように、空き地で棒きれをふりまわし、《鞍馬天狗》や《まぼろし城》の物語の一部を演じていた。チャンバラごっこの特色は、映画のすじをあたまに置いて、その主人公や敵役になってそれをなぞる、という前提があったことだろう。相手を切るときは、おたがいに「そーっと」切るように注意する。力一杯バットをふってボールをかっ飛ばす野球などとはちがう、これは映画のなかの世界を演じているのだ。チャンバラごっこに夢中になっている男の子には、ふだん歩いているときにも一種の身がまえが、すくなくとも心のなかにはあったようだ。

つよい武士のイメージをもっともリアルにうえつけたのは、阪妻や嵐寛、千恵蔵の出る、主として日活の時代劇だったが、彼らの愛読書のなかには、講談社の『少年講談全集』というシリーズがあった。少年講談はひと昔まえの隠れたベストセラーだった、「立川文庫」のリバイバルといってよい。「立川文庫」は大阪の立川文明堂という小さな出版社の刊行物で、1910年代(ほぼ大正前半期)の講談ブームの波に乗って少年向きの、いわゆる書き講談をつぎつぎと出版した。猿飛佐助とか、霧隠才蔵とかいう真田十勇士の話など、ほとんどは書き手の勝手な想像の筆先からでた、荒唐無稽としかいいようのない架空談だったが、少年たちのおさない心に与えた影響は大きかった。1930年代(昭和戦前期)の講談社はこれに追随し、『少年講談全集』はやはりかなりのヒット商品となった。

【雄弁】という小さな雑誌の編集者だった野間清司が、【講談倶楽部】を創刊したのは1911(大正10)年のこと。彼は自伝のなかでこう述べている。

一般民衆に、忠孝仁義の大道を打ち込み、理想的日本国民たらしむべき適当な機関として何があるか、(……)あの沢山ある講談のある種のものを読物にしたら、民衆教育の絶好の資料となるのではなかろうか。それは、概して、武勇仁義の物語である。侠客とか仇討ちとか、武勇伝とか出世物語とか、(……)たとえ石川五右衛門や鼠小僧の如きものを取扱った講談にしても、その中には善を勧め悪を懲らし、俗を移し風を易うるに役立つものが少なくない。ただに講談とのみいわず、義太夫にしても、浪花節にしても、義理人情を教える上に、日本精神の涵養の上に、どれほど役立っているか分からない。
(野間清司『私の半生―講談倶楽部創刊の決意』1944)

1888(明治21)年の統計では、東京府下の芸人中、落語が男女で689人、講談が男のみで399人となっている(→年表〈現況〉1889年1月 「東京府下の芸人の数」都新聞 1889/1/6: 3;朝日新聞 1889/1/6: 4)。この時代は名人三遊亭圓朝の全盛期だったが、それでも講釈師の数は落語家の半分よりは上回っている。すでに1884(明治17)年には圓朝の『牡丹灯籠』の速記本が刊行されているが、1890年代に入って新聞の頁数が増え、また夕刊が加わり、連載小説が二本立てとなると、その一本に講談の速記が載るようになった。小説作家のえがく歴史小説と講談速記とでは、その語り口がまったく違うのだが、やがて講釈師が筆をとって、いわゆる書き講談を載せるようになると、作家の側も、おそらく読者や編集者の要望にそって、通俗味の濃い、いわば講談調の、小説作品を書く人が現れだす。谷崎潤一郎の『お艶殺し』も発表当時、講談風だと批判されている。

1902(明治35)年の【文芸倶楽部】編集部の観察では、講談の定席には職人や魚河岸の兄いが多いとのことだ。講談の聴かせどころは修羅場だ。講釈師は張り扇で見台を叩いて戦や喧嘩の場面を熱演する。勇みの兄い連は、肩に力こぶをいれて聴いていたことだろう。野間が講談を、侠客とか仇討ちとか、武勇仁義の物語、といっているのはまちがっていない。

しかしこの講釈場をこの時代に、落語など色物席と同様に、おびやかしはじめたのは浪花節だった。【文芸倶楽部】は続けてこう言っている。「浪花節の常連と来たらば更に下等で、これは例の熊公八公以上には歓迎されず、職人車夫馬丁のような客種に限られていた(……)」のが、この頃では相応の商人も、御新造も、お嬢さまも行くという有様で、「東京人の趣味の堕落もここまで来れば申し分あるまい」と嘆いている(【文芸倶楽部】1902/2月)。

翌年春4月、新聞に出た寄席案内を見ると、東京市内に54軒ある寄席のうち、すでに18カ所が新興の浪花節を上演している(朝日新聞 1903/4/15: 5)。

野卑、下品と顰蹙されながら、1920年代、30年代と、浪花節の人気はひろがっていった。その頂点は二代目広沢虎造であり、いちばんのヒット演目は清水の次郎長伝だったろう。その虎造の終生のライバルといわれていたのは玉川勝太郎で、得意とした演目は「天保水滸伝」、上州の博徒笹川の繁蔵をめぐる抗争をあつかっている。

浪花節の人気演目の多くが博徒の抗争と結びついていたように、浪曲師の発声法は、やくざ者が相手を脅すためにもちいる、いわゆるドスを利かせた、つぶれた声が基本になっている。自然な声ではなし、美しい声でうたうという、あたりまえの要求をもつ人にとっては、なぜ無理をして、そんないやな声をおしだそうとするのかが理解できない。

戦争の靴音が重く響いていた暗い時期、1940年代(昭和15年以降)の少年たちの日常の身がまえを支えたもうひとつのアイドルは、吉川英治のえがいた宮本武蔵だった。いつもしかめ面をして、口をへの字に結んでいるような武蔵のすがたは、鞍馬天狗や清水の七人衆よりはやや高級だったろうが、昭和戦前生まれの日本の男のイメージを特色づける、隠れた骨格の一部分だったといってよい。

(大丸 弘)