| テーマ | メディアと環境 |
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| No. | 707 |
| タイトル | 帝国劇場 |
| 解説 | 新政府が比較的早い時期から手をつけた文化政策のひとつに、日本演劇の品格を高めることがあった。すでに1872(明治5)年には、猿若町の三座および作者三名に対して、追々貴人あるいは外国人の見物が増えるであろうからとして、これまでのような「淫奔ノ媒トナリ親子相対シテ観ルニシノビザル」等のことを禁じた(→年表〈事件〉1872年2月 「東京府、猿若町三座太夫ほかに禁ず」新聞雑誌 1872/3月)。すこし遅れて寄席に対しても、「第三条 猥褻ノ講談及ビ演劇類似ノ所作ヲナスベカラズ」(寄席取締規則)との布達を発している(→年表〈事件〉1877年2月 「寄席取締規則改正」【警視本署布達 甲】第6号 1877/2/10)。 1890(明治23)年には、警察令として劇場取締規則を公布した(→年表〈事件〉1890年8月 「劇場取締規則公布」【警察令】第14号 1890/8月)。その第19条に「演劇の所作にして猥褻に渉(わた)り、又は風俗に害ありと認むるときは、臨検官吏に於いて之を停止することあるべし」とあり、その後じっさいにそういう停止の事件があったかどうかははっきりしないが、小芝居や田舎まわりの舞台には、相当ひどいものもあったらしいことは、坪内逍遙も指摘している。 この警察令のなかでは見物客に対しても、「濫(みだ)りに舞台に上り又は花道を徘徊すべからざる事、帽子を冠り妨げを為すべからざる事、袒裼(はだぬぎ)裸体頬冠り其他之に類する不体裁の所為あるべからざる事」との警告を発している。 1897(明治30)年には、五代目菊五郎の出演した歌舞伎座の《小猿七之助》の舞台が、あまりに卑猥、残忍だとの非難から、警視庁によって中絶させられた、ということは歌舞伎年表に出ている(→年表〈事件〉1897年7月 岡本綺堂「ランプの下にて―明治劇談」『明治演劇年表』1935)。 幕末の文化世相のなかには、かなりえげつない、また今日の日常的な感覚からは不愉快な出しものや造形表現の多かったことを、当時の浮世絵、絵本のたぐいから、また見世物興行の記録によって、われわれは知っている。もっとも、自分の国のそうしたアラの部分は簡単に目につく。その一方で、同時代のロンドンやパリの、世紀末の状況がどんなだったかなどは、お雇い技術者、教師、宣教師などにばかり接している大部分の日本人には、まったくブラインドだったのだが。 その一方、煉瓦造りの重層の建物、舗装された道路をゆく馬車、眩いばかりのガス燈や電気燈、絨毯をふんで、手に手をたずさえて歩く洋装の紳士淑女、そうした華やかで高尚な、西洋風文明の舞台が鹿鳴館や帝国ホテルの舞踏会であり、帝国劇場だった。 1911(明治44)年3月に開場した東京日比谷の帝国劇場について、招待されたフランス人記者は称讃しながらも、ヨーロッパでなら二、三流の劇場といったところ、と率直な批評を下している。けれども当時の演劇関係者にすれば、日本の演劇の伝統と、欧米の文明とを融和させようとした、ぎりぎりの工夫の結果だった。その最大のものは芝居茶屋の廃止だろう。わが国では芝居にかぎらず、回向院の相撲でも、吉原の廓(くるわ)遊びでも、すこし余裕のある遊びとなると、かならずそこに茶屋というものが介在し、客は無用の出費を強いられた。芝居の世界と茶屋との結びつきはきわめて強かったのだから、これは劇界にとっての大きな英断だった。また平土間をぜんぶ椅子席にしたこと、靴履きのままの入場を認めたことは、洋風の劇場としては当然のことといえ、大きな前進だった。その一方で、じっさいにはほとんどの客が和装であることへの配慮として、地下に下足場を用意し、また3、4階の桟敷席は畳敷きとしている(→年表〈事件〉1911年3月 「帝国劇場開場」報知新聞 1911/3/2: 7;『帝劇の五十年』;読売新聞 1910/11/16: 3)。 さらに女優の養成も、欧米の劇場に倣ったものだ。ただし女優に関しては、政府にかなりの迷いがあった。もともとわが国では男女入り交じって舞台に登ることを、風紀のうえから嫌い、これが女形を生んだ理由だ。1890(明治23)年になって、男女俳優が混合しての興行は欧州各国にその例があるので不問に付すべし、という警視庁訓令が出た(→年表〈事件〉1890年8月 「男女俳優が混合しての興行は」東京日日新聞 1890/8/24: 4)。政府にとっては、切支丹禁令廃止とかわらないくらいの、苦汁の選択だったのかもしれない。それかあらぬか、女優に対する政府の態度には、そののちも頑なさが残った。1921(大正10)年、英国皇太子が帝国劇場訪問の折、宮内庁は当日の演目から女優の出演をとりやめることを要求した(→年表〈事件〉1921年12月 「英国皇太子台覧の舞台に女優は除くよう」読売新聞 1921/12/22: 9)。もっとも、宮内庁がマスコミから「非文明的」といわれたそのような要求を出した背景には、その時代の世間の女優蔑視の風潮も気にしたのかもしれない(→参考ノート No.505〈女優〉)。 帝国劇場がわが国のコメディ・フランセーズ(Comedie francaise)になりえなかった理由のひとつは、女優のみならず、所属の劇団、俳優が育たず、貸劇場であり続けたためだろう。当初、帝劇はパリのオペラ座やロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスでもあることを目指して、イタリアからミラノ・スカラ座在籍の経験もあるジョヴァンニ・V・ロッシを呼び、歌劇部を併設した。けれども西洋のオペラは、結局、この時代の日本には根づかなかった。 「今日は帝劇、明日は三越」とはいうものの、帝劇の主な出しものは歌舞伎しかなかったから、主要俳優を集めている歌舞伎座の下風に立たざるをえず、女優劇の珍しさで客寄せをしたり、やがては映画の上映でなんとか維持してゆくという状態だった。 オペラ座の正面大階段を、フルドレスの女性が豊かなトレーンを曳いてゆっくりと登ってゆく、そこまでは期待しないまでも、幕間や閉幕後の廊下やフォワイエで、盛装した紳士淑女が礼儀正しく、ときにはやや興奮のさめやらぬ面持ちで語りあう、外国映画で見なれたそんな情景は、結局帝劇ではあまり実現しなかったようだ。 オペラにかぎらず、大規模の音楽会もあまり催されなかったのは、音響効果に難点があったためという指摘もある。そののち海外の名演奏家が来日のおりも、ほとんどすべては公園をへだてた日比谷公会堂が舞台となった。けれども、その日比谷公会堂のフォワイエも「絵」にはなりにくかったようだ。その時代、海外から入ってくる音楽も、新しい演劇も、その支え手の大部分は、貧乏学生や、あまり豊かとはいえないインテリたちだったのだ。 (大丸 弘) |