近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ メディアと環境
No. 708
タイトル 浅草オペラ
解説

日本人が女性のからだを、それもむき出しの肩や素足を舞台で鑑賞することは、帝劇の女優劇や、赤坂ローヤル館のオペラの時代を経たのち、1910年代(大正期)後半の浅草オペラ、関東大震災後のおなじ浅草の軽演劇、レビューで実現した。

1916(大正5)年の帝劇洋劇部の解散が、結果的には日本のオペラ運動にきっかけをあたえたことになる。当時帝劇にはイタリアから招いた演出家ジョヴァンニ・V・ロッシがいた。ミラノのスカラ座付属バレエ学校を卒業し、スカラ座に在籍の経歴もあるロッシは帝劇で、また帝劇との契約の終わったのちは赤坂のローヤル館で、かなり本格的にイタリア歌劇を日本に移植しようと努力したらしい。しかしこの時点では彼の努力は報われなかった。

失意のロッシがアメリカに旅立ったあと、浅草の常磐座、金龍館、日本館といった小さな小屋で、野心を抱いた何人もの若い才能が離合集散をくり返しつつ、こちらもまた未熟な若い観客――ペラゴロなどと馬鹿にされた――を相手に、日本的なオペラの試行錯誤を重ねていった。そのなかに、高木徳子、原信子、田谷力三、清水金太郎・静子、石井漠、藤原義江(戸山英次郎)などの顔もあった。

増井敬二『浅草オペラ物語』(1990)によると、震災の前年1922(大正11)年、東京にあった27の実演劇場の観客動員数の10.5パーセントが浅草金龍館1館の入場者だったという。この時期は浅草オペラが金龍館に合同して以後のことで、1918、1919(大正7、大正8)年は上にあげたようないくつもの小屋にオペラがかかっていて、増井はその最盛期の観客動員数を、少なくとも1922年の金龍館の3、4倍はあったにちがいないと推測している。

浅草オペラのこの異常ともいえる人気の理由は、イタリアオペラが帝劇的なものから、浅草的なものへと変容したため、としか考えようがない。1910年代(ほぼ大正前半期)の浅草はじつは映画人気で沸きたつお祭り広場だった。1909(明治42)年の[万朝報]は「近来活動写真の流行はほとんど極点に達している、東京市内の常設館は70軒以上、第一の流行地は浅草公園6区である」と報じている。もともと浅草の娯楽には、子ども相手、お上りさん相手、という気分が色濃い。覗きからくり、ジオラマにパノラマ、生人形、少女の玉乗りに安来節。

しかしあながち子ども相手ともいえないのは、浅草の見世物にはかなりいかがわしいものも混じっていたことだ。庶民の町であるからには、この時代、しかたのないことだったろう。

たとえば凌雲閣十二階下といえば、私娼の巣だったし、千束町辺の少女売春もしばしば話題になっている。1912(明治45)年の新聞は、その辺りに出没する14歳から16歳くらいまでの少女淫売婦の数は100人以上に達するとして、ご丁寧にその実名と年齢を列挙している(→年表〈現況〉1912年6月 「不気味な町」朝日新聞 1912/6/22: 5)。

江川一座の少女玉乗りにしても、せいぜい13、14歳まで、という彼女たちは、成熟にはまだすこし間があるとはいえ、脚にピッタリしたタイツ風の股引は、ものの喩えに「江川の玉乗りみたい」と言われる紅の濃い厚化粧とあいまって、なにかに飢えている若者たちの、「劣情」を刺激するにはじゅうぶんだったろう。この玉乗り風の化粧と恰好は、つぎの時代に産声をあげるサーカスに引き継がれてゆく。

タイツといえば、ロッシ夫人のタイツ姿に演劇評論家までが正気を失ったと、増井が書いている。来日したときロッシは50歳近かったから、夫人もそのくらいの年齢だったろう。この時代の日本の男性がいかに、女性の生の姿態に無抵抗だったかは、いじらしいとしか言いようがない。古いことで、いくぶんレベルの違うはなしだが、1883(明治16)年に浅草に大女の見世物というのが現れ、なんの芸もなく、ただ足を見せるだけ、というので差し止めになったことがある(→年表〈現況〉1883年4月 「大女」読売新聞 1883/4/29: 3;1883/5/5: 2)。

浅草オペラと雁行するように、アイドル的な人気を博していたのが、奇術の松旭斎天勝(しょうきょくさいてんかつ)だった(→年表〈事件〉1902年x月 「松旭斎天勝、旗揚」)。ほぼおなじ時期に舞台のアイドルだった、松井須磨子や三浦環とは異質の魅力をもって、天勝は観客を悩殺したらしい。その理由は、彼女が松井や三浦とちがって美貌に恵まれていた、ということもあるけれど、その大胆に身体の線を露わす舞台衣裳も、若い男性には抵抗しがたかったようだ。劇とちがって、奇術にはコスチュームの制約というものがないのだ。

1919(大正8)年の[都新聞]は、「俗悪なる歌劇の流行」のとりわけ著しい悪影響のひとつは、歌劇女優を写した絵葉書だとして、つぎのように書いている。

半裸体の或いは脇の下を中心に撮影したるいかがわしきもの非常に増加し、その売れ口も頗るよく、その挑発的絵葉書を俗に彼等仲間にて「脇の下」と称し居る程にて(……)絵葉書屋は曰く、「一番人気のあるのは日本館の明石須磨子で脇の下にはもってこいの女です、それから今井静子の足上げダンス、河合澄子の肉体ダンスの舞台面などがよく売れますが、その筋の干渉が厳しくて弱っています」。
(→年表〈現況〉1919年6月 「歌劇の絵葉書―脇の下」都新聞 1919/6/5: 3)

永井荷風はすこしあとの1926(大正15)年に、つぎのような感想を日記に書きのこした。

十年前は翻訳劇流行を極め、俳優はただ西洋人の身振りをなすことを喜ぶに過ぎざりしが、今日は流行変じて舞踊となり、女優らはその裸体を公衆の面前に曝して得意満面たり、(……)。
(『断腸亭日乗』1926/10月)

つづけて、赤坂築地辺の芸者で、待合に呼ぶと携えてきた蓄音機に合わせて裸体でサロメのダンスを踊る女のことを書き、祝儀は1席10円より20円、また枕代は20円より30円とまで記している。

1920年代初頭までの浅草オペラがこういう魅力だけで観客を誘引していた、というのはもちろん言いすぎだ。しかし日本の若者がはじめて経験した舞台のエロチシズムの、ひとつのメッカが浅草オペラだったこと、やがてそれが大震災後の、レビュー、軽演劇の、いわゆるエログロナンセンスの時代にひきつがれていった、ということは言えるのではないか。

(大丸 弘)