| テーマ | メディアと環境 |
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| No. | 702 |
| タイトル | 新聞/雑誌(19世紀末) |
| 解説 | 開化以後それほど時をおかずにつぎつぎと創刊された新聞が、大衆の知見を、それまでとは比べものにならないくらいひろげたことは疑いない。新聞の刊行は幕末からはじまっていたが、それらは特定のせまい範囲の読者を対象にしていたもので、1871(明治4)年創刊の[横浜毎日新聞]、[新聞雑誌]、1872(明治5)年の[郵便報知新聞]、[日新真事誌]、[東京日日新聞]、1874(明治7)年の[朝野新聞]、[読売新聞]、1875(明治8)年の[仮名読新聞]、[平仮名東京絵入新聞]等々は、より幅広い読者に受け入れられて、ほとんどは順調に発展した。 新聞それ自体がものめずらしく、人気をもっていた。1875年には大阪の中座で、〈東京日日新聞〉が上演されて評判になった(→年表〈事件〉1875年3月 「大阪中の芝居」東京日日新聞 1875/3/20: 2)。若い手代などが店先で新聞に読みふけって、番頭に叱られる。とりわけ外国人を驚かしたのは、下女のような身分の者が新聞を読んでいることだった。江戸時代から日本人の識字率が高く、知識欲の旺盛だったことは、外国人の旅行記でもよく指摘されている。当時の東南アジアから比べると、とりわけ女性たちに教育がゆきわたっていたことを、世界旅行の途中日本にたちよったシュリーマンも書き残している。 たしかにたいていの男女が文字を読むことはできたが、日本人のそれ以上の知的向上を阻んだのは、漢字と、ほとんど漢字漢文で書かれた古典の壁だった。第二次大戦後のアメリカ占領軍が、日本の教育改革の一環として、日本語のローマ字表記を推し進めようとしたが、実現はしなかった。今日ではそれを幸いだったとする意見がふつうだし、またローマ字表記した日本語はきわめて読みづらい。ともあれ大幅な漢字制限と、四書五経など中国古典の学習の半義務づけから解放されたことは、よろこぶべきだろう。その点では明治の文化人の多くは不幸なことにまだ、漢字漢籍の八幡の深い藪の中にいた。 大衆の多くは平仮名こそ読めたが漢字となるとべつだった。そのために[郵便報知新聞]などのやや硬い文体、内容の新聞を追いかけて、前の時代の草双紙同様、ほとんどが仮名書き、そして絵入りの新聞が刊行される。この種の新聞は小新聞といわれた。のちの時代になっても、連載小説に挿絵をつけることを嫌う作家の心情に、その記憶が残っている。 1880年代(ほぼ明治10年代)のたいていの新聞は続きものの読物を掲載し、その多くには挿絵がついた。挿絵も最初は記者の手すさびの稚拙なものだったが、やがて絵双紙や一枚絵を描いている本職の絵描きの余技になる。明治前半の新聞挿絵の多くは署名はもちろん落款もなく、担当画家の名はわかっていても、その時代の習慣からいえば名のある画家本人の筆であるかどうかは疑わしい。ただしだれが描いたにせよ、ともあれ職業画家のリアルタイムの衣裳づけとして、われわれにとっては貴重な資料であるし、同時代の人にとってもけっこう参考になる風俗情報だったろう。 1880年代以降はまた雑誌の時代でもあった。ただし装いの専門雑誌の出現はかなり出遅れた。1890年代の風俗情報は、1889(明治22)年創刊の【風俗画報】、1892(明治25)年の民友社版【家庭雑誌】、1897(明治30)年にはじまった都新聞社【都の華】に代表される。若い女性向けの雑誌も何種類かあるが、【女学雑誌】(1885~)の見識にときたま耳を傾けられる程度で、生活関連記事は低調だ。 1900(明治33)年を過ぎるころからは女性雑誌花盛りの時代に入る。以後の身装情報は、【婦人画報】、【婦人世界】等の女性雑誌、三越の【時装】高島屋の【新衣裳】等の呉服店百貨店カタログが中心になるが、1900年代(ほぼ明治30年代)についていえば、春陽堂の【新小説】、あるいは【文芸倶楽部】などの文芸雑誌の流行欄に注目しなければならない。文芸誌が流行欄をもつのは奇妙のようだが、巻頭の口絵写真はたいてい芸者の艶姿だし、流行欄の執筆者もある程度は知られた文人ぞろいということだから、この時代の文芸界の雰囲気が察せられる。 流行はそれとして、日常の衣生活についてのより実用的な情報については、またべつの入手方法が必要だ。着るもののすべてが、家の女たちの手で裁ち縫いされていた前の時代から、なにかのときに参考にするような手ごろの裁縫書が、大量に刊行されてきた。その多くは小形本で、「袖珍」なになにと名づけられているように、針箱の隅にでも無理なく入れておけるような大きさだった。裁ち方や縫い様などの細部には、ときおりユニークな工夫の見られるものもあったが、1890年代(ほぼ明治20年代)以降になるとそれらは学校裁縫に包含され、集約されて、そのなかから主として高等女学校や高等師範で講座を担当する、高名な裁縫教育者の著した教科書が、権威として全国的に通用し、版を重ねた。 裁ち縫いとはべつの視点からの衣へのアプローチ――素材や、洗染、管理、衛生、経済等は、高等女学校の教科の整備されてゆく過程で、家政、という大きな概念のなかに組み入れられる。ただし前代の女訓書では比較的重んじられた「容儀」という概念は、少なくともことばとしては、家政科目の服装教育のなかからほとんど消えている。 「容儀」をふくめて、近代前半期の、衣に関するより日常的情報の提供者には、古い女訓書の流れも伝えている作法書のほか、日用便覧、(掌中)百科事典、といったたぐいの実用書がある。ものを気にしなければならない稼業なら1冊は置いていた三世相や大雑書類とおなじように、布を裁つ日の吉凶とかまでを含んでいるこの種の本を、その時代の庶民の最下辺の知識と関心事を知るうえでは、無視することはできない。 (大丸 弘) |