近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ メディアと環境
No. 713
タイトル 東京の路
解説

女性が外出のしやすさの点から見るなら、都市としての首都東京のいちばん困った問題は、近代80年の前半でいえば公衆便所の不備であり、後半ではいたるところのぬかるみ道だったろう。

開化以前の江戸の町がそれらの点でもっとマシだった、ということではない。裾の汚れを気にするような娘や女房は、めったに遠出をすることなどなかったのだ。

外国人の見る眼の不体裁ということでは共通する、男性のところかまわぬ放尿と、不潔な共同便所とは、開化当初から行政にとっては頭の痛い課題だった(→参考ノート No.115〈排泄とその設備〉)。

1900(ほぼ明治30)年を過ぎるころから、共同便所についての苦情が、新聞の投書などにもあまり見られなくなったのは、手洗所をもった鉄道の駅の増加、都心に多くなった喫茶店、また休憩室を完備した百貨店の出現にもよるだろう。

東京の道路が近代的な装いを備えるようになる第一歩は、1873(明治6)年に完工した銀座煉瓦街だ(→年表〈現況〉1873年3月 「東京雑話」新聞雑誌 1873/2月;→年表〈事件〉1873年10月 「銀座煉瓦街のうち京橋以南が落成」)。総道幅27メートル、車道の部が14.4メートル、歩道幅が各6.3メートルという広さは、模範としたといわれるパリのグラン・ブルヴァール(Grands Boulevards)にくらべれば狭いものの、それまでの江戸の表通りが、広小路などをのぞけばほぼ12~14メートルだったのにくらべて、だいたい2倍の幅をもつ。また、これもグラン・ブルヴァールにならって、街路樹が植えられた。1890年代(ほぼ明治20年代)になると新政府にも、道路整備への多額の費用捻出の余裕がうまれ、市区改正街路といわれる日比谷通り、桜田通り、外堀通り、馬場先門通り、青山通り等の、皇居をめぐって、帝都としての体裁を整えるにたる街路が、つぎつぎに誕生した。これらのなかには総道幅36メートルというものも含まれる。

いわば江戸時代の道は、所要をもつ人がある場所からある場所までたどりつく区間、でしかなかったが、左右の歩道に影をおとす街路樹、ときには二重の植樹帯と中央の遊歩道など、歩くこと自体を楽しむための、都会の道路への変容がはじまる。これまた銀座からはじまったガス灯による街路照明も、東京の夜を変えてゆく(→参考ノート No.015〈照明〉)。

道路整備は、都心の幹線道路の道幅拡張、舗装、人車線分離という原則にそって進んだ。けれども最初のうちは市民の側にも、こうした整備についての理解や、協力の姿勢がとぼしかったようだ。左右の店舗からは商品や大きな看板が歩道にあふれ出し、露店が勝手に建ちならび、たくさんの人力車が客待ちをしているという状態。一方、車道の真ん中を歩行者が悠然と漫歩している(→年表〈現況〉1874年4月 「投書―車馬の道と歩行者の道」郵便報知新聞 1874/4/15: 2;→年表〈現況〉1875年3月 「東京に道路の規則なし」東京日日新聞 1875/3/14: 1)。

ぬかるみ道の悩みは、東京全体でいえば第二次大戦後までつづいたといえる。もちろん都心とあたらしくひらけた土地との較差は大きかった。関東大震災で、永年すんでいた麹町辺から麻布にひきうつった岡本綺堂は、そのあたりの道路の悪さに悩まされた。

十番の大通りはひどく路の悪い所である。震災以後、道普請なども何分手廻り兼ねるのであろうが、雨が降ったが最後、そこらは見渡す限り一面のぬかるみで、ほとんど足の踏みどころもないといってよい。(……)私のような気の弱いものはその泥濘におびやかされて、途中から空しく引返してくることがしばしばある。
(岡本綺堂『十番雑記』1937)

はなしはいくぶん古いことになるが、1878(明治11)年初期の地方官会議で、女性にも参政権を与えよという要求に対する反対理由のひとつに、女性が外出することの困難さをあげる意見もあった。

女子を選挙人とするは非なり。何となれば選挙人は残らず投票を其の郡区庁に持ち出さざるを得ず、婦女子は男子と違い、遠路往復するは難儀なるべし、且つかく労せしむる の利益なかるべし。
(藤井甚太郎「婦人参政権と普選論の端緒」『新旧時代』1925/2月)

東京の路の悪さはひとつには土質のせいともいわれる。東京にくらべて大阪は土質もよかったが、川が市内を縦横に通じているため、貨物は舟を利用して運搬が可能だった。大阪市は長いこと、牛馬車荷車の市内に入るのを禁じていた。

関東大震災後の東京は焼野が原を不幸中のさいわいと、近代都市化への復興計画をたてたのはいうまでもない。しかしその段階で道路の新しい敵となったのは急激な自動車の増加だった(→年表〈現況〉1927年11月 「急激な勢いで増加する自動車」国民新聞 1927/11/18: 6)。未舗装の道路はいうまでもなく、簡易舗装の道路も車のタイヤで遠慮なく穴をあけられた。そのうえ、「道の真ん中を歩行者が悠然と漫歩」などという時代は昔語りになった。車道はいつも満員の都電と、バスと、タクシーと、自転車と、馬のひく馬力とが交錯し、それが大都会のおもな景観をつくった。

景観論のうえからいうと、銀座が模範としたパリのグラン・ブルヴァールは、ヴィスタ型といわれる街路設計であり、それには景観の焦点となるモニュメントが必要になる。19世紀末から東京にはすこしずつ銅像が建造されたが、それらは街路の焦点になるような巨大なものではない。単純にいえば日本の街路は、銀座の柳、はあるが、それを包み、みあげる視線の焦点となりうるような建造物が欠けていた。強いていうなら、1932(昭和7)年に建造された服部時計店ビルが、それに近いと言えるかもしれない(→年表〈事件〉1932年6月 「服部時計店ビル建造」)。

1923(大正12)年、東京駅の皇居側に、丸の内ビルディングが建設された(→年表〈事件〉1923年1月 「丸の内ビルディング完成」東京日日新聞 1923/1/27: 9)。地下1階、地上9階というのは戦前最大のビルだった。丸ビルは低層階がショッピングモールになっていて、東京の有名店舗が入居し、天井は低いが、雨風の気遣いのない新しいスタイルの街路が誕生した。完成後7カ月目の震災のため補修を施し、中央郵便局、東京海上ビル、郵船ビルなどの建設と相まって丸の内のビル街が東京新名所となったのは、1920年代後半(昭和初期)と見てよいだろう。1925(大正14)年には、丸ビルだけで800人近い女性が働いていた。それは着飾って遊びにくる、銀座の歩道の女性たちとはべつの顔をした、現代女性だった(→年表〈現況〉1924年7月 「女国巡礼」国民新聞 1924/7/27: 7)。

コンクリートの垂直の壁面と、堅い灰色のペーブ、冷たいガラスの光と、直線で区切られた空、それがモボモガたちを含めて、1920、1930年代(大正末~昭和戦前期)の都会人を包んでいる環境だった。

(大丸 弘)