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5. 着る人とTPO
501 神社と神主
戦前戦中とくらべて、敗戦後に権威の落ちたもののひとつは八百万の神様たちだろう。むかしは神棚のない家というのはめずらしかった。戦時中のことだが、あるクリスチャンホームでは神棚をもたなかった。小学校で先生から、神棚のない家は人の住む家ではなく、ただの箱にすぎないと教えられた子どもが、父親に泣いてせがみ、仕方なく父親は夜店で小さな神棚を買ってきて、長押の上に飾った、というはなしもある。仏間があるというような家はべつとしても、仏壇はわりあい低いところにあるのに対し、なぜか神棚は高いところにある家が多い。それは神…
5. 着る人とTPO
502 お寺と坊さん
維新後に権威の落ちたものはいろいろあるが、仏教寺院もまちがいなくそのひとつ。しかしこれは考えるまでもなく、江戸時代の仏教が切支丹禁制を目的とした寺請制度に利用され、庇護されすぎていたことの裏返しだ。一種の人別――戸籍法ともいえる寺請制度は、民衆の側からは檀家(だんか)制度という。檀家というのはそれぞれの寺の信者のことなのだが、檀家は寺をえらぶ権利をもっていなかった。ひとが死ねば、法要は所属する寺の指示のもとにおこない、死者の亡くなった日――命日のほか、初七日、四十九日とか、何回忌などという年忌法要がつく…
5. 着る人とTPO
503 芸者
芸者とは、宴席等によばれ客の相手をして座をとりもち、遊芸を演じるなどして、興を添えることを職業とする女性。別称は芸妓。関西では芸子とよぶ。歌妓という堅いよび名もあり、明治時代の文献には、東京で拍子、またふざけて猫などといっている。大人の芸者を一本といい、まだ一人前でないときは玉代(料金)が半分なので半玉、あるいはおしゃくとよんで、雛妓という字をつかう。京都では一本になることを襟かえといい、それ以前は舞妓とよぶことはだれでも知っている。芸者の身装はその土地、その時代の、未婚の女性の恰好と別段ちがうことはな…
5. 着る人とTPO
504 花柳界
1897(明治30)年に刊行された金子佐平の『東京新繁昌記』があげている、東京の主な芸者町はつぎのとおり。新橋、日本橋、芳町、柳橋、茅場町、吉原、浅草公園、洲崎、烏森、神明、赤坂、神楽坂、講武所、湯島天神。芸者の総数は、たとえば1889(明治22)年の『大日本統計表』によると、55,350人ということになっているが、もとよりたしかな人数はつかめない。芸者がいるだけでは芸者遊びはなりたたない。日本座敷をもつ料亭、和装、邦楽、この3つの存在が欠かせない条件となっている。明治時代にはこの3つは、人々の日常生活…
5. 着る人とTPO
505 女優
女優ということばが盛んに人の口の端にのぼりだしたのは、明治も終わりに近い1908、1909(明治41、42)年頃、川上貞奴による女優養成所の発足(→年表〈事件〉1908年 「川上貞奴の帝国女優養成所発足」朝日新聞 1908/9/12: 6 ほか)、それが帝劇女優となっていった時期だろう。1911(明治44)年に、東京日比谷に帝国劇場が開場した(→年表〈事件〉1911年3月 「帝国劇場開場」報知新聞 1911/3/2: 7 ほか)。「ヨーロッパのマァ二三等の劇場」と、フランスの新聞記者に言われたこの劇場の…
5. 着る人とTPO
506 歌舞伎役者
落語家が噺(はなし)の枕に、御婦人のお好きなものは、芝居、唐茄子、芋、こんにゃくといって笑わせる。好きといったところで、ふところ具合も暇もかぎられている庶民が、どれほど芝居を見られたのだろう、という疑問がある。それに対して、いやむかしは、子守女でも立ち見にチョイチョイ木戸をくぐれるくらいの、安直な小屋がけ芝居がいくらもあったのだと説明する人もある。明治の初めには新富座、歌舞伎座のような外国の賓客も訪れるような劇場と、庶民相手の小芝居という区別があり、小芝居のすこし格の上のものを中芝居ということもある。岡…
5. 着る人とTPO
507 女給
流行のアイドルは、大正末から昭和10(1935)年頃まではカフェの女給だった、と回顧する人もある。ビクターレコード発売の《女給の唄》がヒットしたのは1931(昭和6)年、これは帝国キネマの映画《女給》の主題歌で、映画の原作は広津和郎、前年に【婦人公論】に連載した問題作。『銀座細見』(1931)を書いた安藤更生が、「流石に広津氏は長年カフェへ通っているだけに、女給というものを知っている。あれが本当の銀座女給だ」と保証している。そのころまでの銀座は、新聞社や出版社、大きな書店が集まっていたせいもあって、もの…
5. 着る人とTPO
508 ダンサー
職業的フロアダンサーがいつごろ現れたのかははっきりしない。1900、1910年代(明治30年代~大正前半)には、富裕階層の人々や外国人を相手にした帝国ホテルの土曜舞踏会以外、定期的なダンスパーティーや、ダンスホールがあったという記録があるだろうか。1921(大正10)年の[読売新聞]の投書につぎのようなものがある。この頃はダンス大流行である。彼方でも此方でも男と女が腕を組み合わし、お尻を抱えて踊り狂っている。不思議なのは風紀係の役人が是れにだけは知らぬ顔の半兵衛を極めこんでいることだ。(「投書―ダンス流…
5. 着る人とTPO
509 花魁/娼婦/遊廓
1956(昭和31)年に公布された〈売春防止法〉は、売春行為そのものにとどめを刺しはしなかったが、大きな転機となったことはたしか。日本の売春制度の歴史のうえで、これに先だつもうひとつの大きな転機は、1872(明治5)年10月の人身売買禁止の布令、いわゆる〈娼妓解放令〉(→年表〈事件〉1872年10月 「人身売買禁止の発令」【司法省布】第22号 1872/10/2)。この法令、また翌年12月の東京府貸座敷渡世規則、娼妓規則等がおもなねらいとしたのは、文明諸外国の手前都合のわるかった娼妓の拘束をゆるめること…
5. 着る人とTPO
510 明治の学生
学生ということばは古くからあったが、明治時代には学校に通って学問をしている若者を指して、一般には書生といっていた。明治の後半頃から、書生というのは、学校に通いながら他家に寄宿して、玄関番や力仕事、用心棒をかねた雑用をする若者のことをいうようになる。この時代には苦学生ということばがあって、書生さんは大体苦学生だった。尾崎紅葉の家の玄関脇の三畳に、若き日の泉鏡花が置いてもらっていた。鏡花はべつに学校へは行っていなかったけれど、やはり人は書生といっていたろう。この場合の鏡花は内弟子の身分。第二次大戦のころまで…
5. 着る人とTPO
511 昭和の学生
時代が昭和を迎えるころ、明治時代の荒っぽい書生さんのイメージが変わった理由は、ひとつには学生スポーツの人気だった。スポーツ人気は学生だけのものではなかったが、はじめのうちは白い目で見られていたらしい西洋人の遊びに、積極的にとびついたのは学生たちだった。明治初めのお雇い外国人教師のなかには、ときおりアマチュアのアスリートがいて、彼らに指導されてフットボールや野球、テニス、登山、スキー、アイススケートのおもしろさを知るようになったのだ。1880、90年代(ほぼ明治10年代~20年代)に、学生野球における第一…
5. 着る人とTPO
512 女学生
第二次大戦前の女学校は、1899(明治32)年の〈高等女学校令〉によって、ほぼその法的枠組がつくられている。入学年齢は12歳以上、就学期間は4年、ないし5年(→年表〈事件〉1899年2月 「高等女学校令公布」【勅令】第31号1899/2/7)。【風俗画報】1905(明治38)年9月号の巻頭の論説「学生の風紀」のなかで、筆者の野口勝一は学生を堕落せしめる3つの原因のひとつに、女学生の跋扈跳梁(ばっこちょうりょう)を恣(ほしいまま)にする事、を挙げている。野口は板垣退助などに近い政治家で、このころは地方新聞…
5. 着る人とTPO
513 モダンガール
英語の モダンガール(modern girl)は当然、モダンシティ(modern city)、モダンイングリッシュ(modern English)などとおなじように、現代の若い女性、という意味でふつうにつかわれるが、1920年代半ば頃(昭和初め)から、Modern Girlsと大文字を使ったりイタリック体にしたりして、特殊なニュアンスをもたせるようになった。それは欧州大戦後の、いわゆるローリング・トゥエンティーズ(Roaring Twenties)に生まれた新しいタイプの女性、自由奔放で古い権威に無関心…
5. 着る人とTPO
514 職場の制服
制服にはいろいろな機能なり目的なりがあり、その軽重は職種ごとにちがっている。もっとも単純には、制服がその業務なり身分なりをだれにもはっきりわからせ、かつ、その業務にとって、機能的に適切なものでなければならないことだ。ある制服はこの前半分、認知性、ということがほとんどすべてであり、そうなるとバッジ(徽章)でじゅうぶん役に立つ。鉄道やバスの乗務員には最初から制服があったが、タクシー運転手にはそういうものがなかった。戦前のタクシーは個人経営のものがほとんどで、タクシー免許の有無などお客にはわからない。かといっ…
5. 着る人とTPO
515 軍人
ミリタリー・コスチュームのマニアは、外国にはずいぶんいるらしい。それには理由がある。ヨーロッパではルネサンスにかかるころに、プレート・アーマー(plate armour)の時代が終わって、16世紀から19世紀半ばにかけては、ミリタリー・コスチュームのとりわけ華やかな時期だった。軍服の彩りもさまざまだが、比較的には赤が多い。すでに銃器が主役の時代なのだから目立つ色は損のようだが、真紅は着る人の士気を高める、という考えかたもある。そのうえあとの時代なら儀礼服にしか用いられないエポレット(epaulette)…
5. 着る人とTPO
516 警察官
同時代の新聞によると、維新当初の東京の治安の悪さは今では考えられないくらいで、押込み強盗のたぐいが毎晩のようにどこかにあった。その一方で、それに対する警察力がどうなっていたかがはっきりしない。記録としては、1868(明治元)年の鎮台府設置と市中取締兵隊の編制、翌年の弾正台の設置など、法令公布のあとはたどれるが、それらがどう機能していたのか、実効性のほどはよくわからない。1871(明治4)年になって、東京府下に邏卒3千人が採用された。翌1872(明治5)年、邏卒のほかに番人が置かれ、ともに「区内ノ安静ヲ警…
5. 着る人とTPO
517 囚人
刑事罰も刑務所もたいていの人には一生縁のないことだが、事件や犯罪ものを扱うことの多い新聞小説などにはよく出てくる。だから手錠をかけられた悪人がうなだれて歩くうしろから、眼をいからせた警官が、腰縄の端をつかんでいるとか、高い壇上の裁判官の前に、被告人や代言人が、丸太のような柵にさえぎられて並んでいる有様などは、探偵ものの愛読者ならばおなじみの場面だ。第二次大戦前の刑務所――1922(大正11)年の名称改正以前は監獄――についての法規は、1908(明治41)年公布の〈監獄法〉に集約されている。その約100年…
5. 着る人とTPO
518 やくざ/遊び人
とりわけ明治時代の新聞小説には、定職のあいまいな遊び人風の人間がよく登場する。凄みをきかせて相手の小さな弱みを言い立てておどし、なにがしかの金品をまきあげるのを商売にしている、《与話情浮名横櫛》の蝙蝠安のような手合いだ。なにかといえば尻をまくり、あるいは片裾をまくりあげ、着物はわざと身幅の狭い仕立――七五三五分廻し――にして、肩に手拭いをのせて芝居がかった見得を切る。はだけた胸には彫物がのぞく。それがやや古めかしい明治のやくざの舞台姿だ。江戸時代は窮屈な管理社会でもあったから、いちどまちがいを犯して人別…
5. 着る人とTPO
519 火消し/鳶
鳶職と町火消しの関係はいまの人間にはわかりにくい。わかりやすく説明されるのは多く江戸時代の制度だ。明治にはいっても、現在でも江戸火消し連中による正月の出初め式が残っているように、旧時代の制度しきたりが急になくなりはしなかったが、時を追ってくずれてゆき、いっぽう官制の消防組織は制度がめまぐるしく変わったため、旧来の火消しと官営消防との関係など、正確にあたまに入れるのはむずかしい。鳶職と火消しとはもともとべつのものだ。鳶職は普請場の人足で、足場を組むなどの高い所での作業が多く、いまは足場鳶、鉄骨鳶、配電鳶な…
5. 着る人とTPO
520 職人/人夫
江戸時代に、武士や町人と区別されて職人といわれたのは、もっぱら物づくりを仕事としていた人たちだ。物づくりに新しい、たいていは外国からの機械が導入され、ものを作っているのは機械で、人間は機械の世話をするような状態になると、たしかにひとつひとつの製品と仕事をする人との関係はうすれる。ただし、製品と仕事をする人との関係が本当に薄れるのは、分業というシステムが入るためだろう。職人と職工を区別するのに、職人はひとつのものを作るのに、自分で全体の責任をもった、という考えもある。しかし徒弟制度で支えられていた江戸時代…