| テーマ | 着る人とTPO |
|---|---|
| No. | 508 |
| タイトル | ダンサー |
| 解説 | 職業的フロアダンサーがいつごろ現れたのかははっきりしない。1900、1910年代(明治30年代~大正前半)には、富裕階層の人々や外国人を相手にした帝国ホテルの土曜舞踏会以外、定期的なダンスパーティーや、ダンスホールがあったという記録があるだろうか。1921(大正10)年の[読売新聞]の投書につぎのようなものがある。 この頃はダンス大流行である。彼方でも此方でも男と女が腕を組み合わし、お尻を抱えて踊り狂っている。不思議なのは風紀係の役人が是れにだけは知らぬ顔の半兵衛を極めこんでいることだ。 つぎの年の【婦人画報】4月号では、この[読売新聞]の投書の時期が、流行のはじまりだったとしている。 昨年の秋頃から流行しだしたダンスは、年が変わってますます盛んになりました。日本橋京橋のような目貫の通りを歩いていても、巣鴨や大塚池袋などの、いわゆる場末の街を歩いていても、蓄音機に合わせてダンスを踊っているらしい音をよく耳にします。 おなじ年の年末の[都新聞]は、今回のダンス流行をやはり昨秋からといい、有楽橋の有楽会、赤坂のミドリ会など、大小のダンスホールの存在と、そのなかで帝国ホテルで週4回開かれるティー・ダンス、サパー・ダンスがもっとも上品だ、と伝えている(→年表〈現況〉1922年12月 「復活した社交ダンス」都新聞 1922/12/20: 9)。しかしここにも、職業的ダンサーについての言及はない。 関東大震災後の1925(大正14)年6月6日の[読売新聞]に、〈不景気のお蔭でダンスが又はやる カッフェーに行くより余程安い 三十銭でお抱え令嬢と遊べる〉という長い見出しの記事が掲載された。このお抱え令嬢とは、本文中では「専属の淑女諸嬢」、「レーディー」とも呼んでいて、「月三十円、ないし五十円ぐらい貰ってひかえている」と説明しているが、ダンサーという言いかたはまだしていない。 この年11月、警視令第46号として舞踏場取締規則が公布、施行された。その11条3項に、「十八才未満ノモノヲ入場セシメサルコト」とあるが、とくにダンサーについての規定はない。 1930年代(昭和5年~)には、すでにダンサーという言いかたはふつうになっていた。1931(昭和6)年5月8日の[都新聞]はそのダンサーについて、「今では立派な職業婦人」という見出しで、つぎのような紹介をしている。 ダンサーになるためには戸籍謄本、履歴書のほかに、トラホーム、結核など伝染性疾患なしという医師の診断書を提出する。未成年者は親の、既婚者は夫の承諾書が必要。芸娼妓の前歴があったり、妾をしていたということがわかったら駄目。採用が決まればダンスはホールで仕込む。警視庁の認可が2、3週間かかるので、そのあいだ練習し、だいたい1カ月で素人でも踊れるようになる。勤務は午後3時出と5時出とが1日おき、昼はよく踊る人で50回くらい、夜は90回から100回。チケットは昼は1回4銭、夜は倍の8銭。閉場は11時だが、チケットの勘定などが30分くらいかかる。収入は最初は月に30円程度、半年も経てば150円くらいにはなる。出費は化粧や衣服やらで月に20、30円というところ。「踊りの際の肉感的ショックもほとんどなく、はじめ二三ヶ月は踊りの稽古に夢中だし、そのあとは踊りの趣味を覚えてきて踊りそのものに心惹かれ、かつ労働が激しいから(……)後むきに毎日二里歩くほど(……)相当疲れるので決して一般には一部の人が想像する如きものではない」(ホール責任者談)。妾をしていたことがわかったら駄目、というのは、いかにもこの時代らしい。 1930(昭和5)年3月に、東京・赤坂のダンスホール、フロリダで、120人の所属ダンサーが待遇改善の労働争議を起こした(→年表〈事件〉1930年3月 「ダンサー、待遇改善を要求して争議」【婦人世界】1932/8月)。この争議は3年後の松竹少女歌劇団の争議と並んで、桃色争議などといわれたが、おなじ女性のイット(it)を売物にするサービス業者ではあっても、芸者はもちろんのこと、同時代のライバル的立場にあった女給とくらべても、職業人としての自覚が高かったことを示すものといえよう。 おなじころ、脚に保険をかけるダンサーが関西に現れて話題になった。一種の傷害保険だが、やがて東京、横浜のダンサーにも広がった(→年表〈現況〉1931年2月 「容姿保険」朝日新聞 1931/2/4: 2)。 おなじサービス業に従事する女性でも、ダンサーは女優とならんで、つねに時勢に敏感な、話題の提供者でもあったようだ。 その、時勢への敏感さのひとつといえようが、日中戦争の戦雲が感じられていた1937(昭和12)年4月に、おなじフロリダのダンサー79名は、東京市内ダンサーのトップをきって、こんどは愛国婦人会に集団加入している。彼女たちのアンテナの高さには感心のほかない。結団式のあと、「真紅の旗を先頭に、二重橋まで街頭行進。新会員はひとりの例外もなく断髪にパーマネント、それに厚いドーラン化粧しているので、愛国婦人会の既成概念を破る効果はあったとか」(読売新聞 1937/4/29: 夕3)。 ダンサーに断髪の多かったのは、仕事の性質上、洗髪を頻繁にする必要があったためもあるだろう。また職業と洋装との関係で、1928(昭和3)年にすでに、一番洋装の多いのは近頃ふえたダンサーで、彼女たちはほとんどが洋装、という指摘もある(都新聞1928/11/28: 9)。ダンサーという呼び名がひろがったのは、おそらくこの時期、大正末から昭和初頭にかけてだったろう。 1930年代には女給の数が減少し、ダンサーの方が増える傾向を示している。1934(昭和9)年の警視庁の統計では、これまで増加の一途を辿ってきたカフェ、バーが激減、これに対してダンサーが142人増えている(→年表〈現況〉1934年3月 「娯楽場盛衰記」朝日新聞 1934/3/13: 夕2)。 (大丸 弘) |