近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 505
タイトル 女優
解説

女優ということばが盛んに人の口の端にのぼりだしたのは、明治も終わりに近い1908、1909(明治41、42)年頃、川上貞奴による女優養成所の発足(→年表〈事件〉1908年 「川上貞奴の帝国女優養成所発足」朝日新聞 1908/9/12: 6 ほか)、それが帝劇女優となっていった時期だろう。1911(明治44)年に、東京日比谷に帝国劇場が開場した(→年表〈事件〉1911年3月 「帝国劇場開場」報知新聞 1911/3/2: 7 ほか)。「ヨーロッパのマァ二三等の劇場」と、フランスの新聞記者に言われたこの劇場の最初の出勤俳優は歌舞伎役者で、それに座付きの女優たちが参加する、というしくみになっていた。みんな素人だった女優の指導には歌舞伎役者たちがあたり、なにかと話題になった帝劇女優劇には、たいていは歌舞伎役者が賛助出演していた。

帝劇女優以前にも女優がいなかったわけではない。女性が舞台にあがることを規制されていた江戸時代でも、小芝居や地方まわりの芝居にはけっこう目こぼしがあったようだが、明治に入ると、市川團十郎の指導を受けた市川久米八、伊井蓉峰一座の千歳米坡などの名が残っている。1905(明治38)年には、大阪で日本女優大会という催しが開かれた(→年表〈事件〉1905年6月 「日本女優大会開催」大阪毎日新聞 1905/6/15: 7)。帝劇とはべつに、白井松次郎による松竹女優養成所が、1912(明治45)年に大阪で設立され、また早稲田大学系の文芸協会による近代劇研究でも、女優の養成を企てていて、そのなかに松井須磨子がいた。松井は帝劇での《人形の家》におけるノラを演じて話題を提供した。舞台上で女の役は女がすべきだという風潮が、すでにゆきわたりつつあった。

しかしとりわけいつも話題の中心になったのは帝劇女優だった。1期、2期、3期と募集を重ね人数がふえるのと比例して、なにかと新聞種にされるようなこともふえた。第1期の女優のなかに、跡見女学校出身で、代議士の娘の森律子のいたことがめずらしがられ、また非難の対象にもなった。

女優たちはなにかにつけて芸者と比較された。作家の戸川残花はある評論中で、「芸者を衰微せしむべき一大敵手が生まれて来ている。何であるか。女優――これである。今日の状態から推移して行くと、女優は漸次公会の席上へ招聘せらるるに至るに違いない」と言っている(「美の絶頂」【新小説】1913/1月)。公会の席、とはなにを意味しているのかはっきりしないが、女優の「お座敷」が盛んにとりざたされた。内田魯庵は「西洋には芸妓というものがない。女優は丁度芸妓の地位を占めている。西洋では社会制裁が厳しいから、贔屓の紳士が女優を連れ込みで瓢屋に泊まるというような寸法はないが、贔屓にする心もちは似たり寄ったりである」と、なぜか日本橋の待合の名まであげている(「女優論」【太陽】14巻13号 1908/10月)。永井荷風は銀座のカフェで出会ったある女優について、「本所小村井村活動写真撮影所の女優居合わせたり。ひそかにきくに二十円にて寝る由なり」と日記に書いている。直接本人に尋ねたのだろうか(『断腸亭日乗』1925)。

集まって写真に撮られているこの時代の女優たちの顔には、ある共通した表情がある。それは愛嬌、と言ってもよいし、羞じらいといってもよい。それは昭和に入ってからの女優たちとはあきらかにちがう、むしろ芸者や女給によく見るコケットリーのようだ。

女優を芸者なみに見るみかたのあらわれが、1921(大正10)年の暮、翌年4月に来朝のイギリス皇太子の帝劇台覧の折、女優の出演を禁じる旨の達しが、宮内庁からあった事件だろう(→年表〈事件〉1921年12月 「英国皇太子台覧」読売新聞 1921/12/22: 9)。

1911年の[報知新聞]夕刊に、帝劇女優を品評して「掛け値なしに踏めば交換手位が関の山だ」という記事があったのに対して、それは交換手を侮辱すること甚だしいとし、か弱き女の身で夜の目もろくろく睡らず働く交換手諸氏と、「己のあらゆる罪悪を包み醜劣なる性質を偽り粧うて淑女顔している者とを、同一視せらるべきや」という投書が、同年10月2日の[都新聞]に寄せられた。この投書に対して[都新聞]の記者は、「誠実に働く健気な女性を捉えて、表面華美にして内面いかがわしき女性と比較を試みる」ことは不穏当と同意している。

女優蔑視の根には、江戸時代からひきずってきた、芸能人蔑視のなごりも感じられる。女優好み、という流行に対し、女性雑誌のある筆者はこんな言いかたをしている。「彼等元来素養あるにあらず、鑑識に富むにもあらず、たかが芸人なんでしょう。真面目に問題に上ぼすに足らぬ側に属する者なんです」(→年表〈現況〉1915年7月 日野夫人「女の姿と新しい流行の源」【生活】1915/7月)。

女優好みのほかに、この時代、女優風とか、女優のようだ、という言いかたが、新聞記事や小説に多く見られる。女優髷というのは、束髪の七三に分けた七の方に、たくさんの梳き毛を入れて大きくもりあげた髪型。見方によれば娼婦の結うシャグマに似ている。廂髪の髷のまわりに、たくさんの飾りものをティアラのように巻き付けた髪型も、女優髷の一種、あるいは女優巻、と言ったかもしれない。髪型にしろ身につけるものにしろ、女優風ということは、どんな方法によれ人目を惹くような、思いきって派手な恰好を指したものらしい。

帝劇女優の時代――1910(明治43)年前後――は、話題は豊富だったが、実際に舞台の上で、女優というものを見ることのできた人は少なかったろう。《恋はやさし》の歌は知っていても、舞台の松井須磨子を見た人はほんの一握りのはずだ。その点はつぎの、帝劇と浅草の歌劇、オペラ女優も同様だ。女優の存在、そして女優の価値を、日本の大衆がほんとうに実感できるようになったのは、活動写真のおかげだった。1910年代の初め(明治末~大正初め)に、映画に女優が登場しはじめる。その後、1922(大正11)年の《京屋襟店》で、映画での女形の出演は終止符をうたれた(→年表〈事件〉1922年x月 「京屋襟店」)。

その2年前、1920(大正9)年に封切られた大正活映の《アマチュア倶楽部》では、葉山三千子が最初の水着美人として記憶されている。おなじ年の国際活映作品《幻影の女》では、最初のヌードシーンが現れる(→年表〈事件〉「幻影の女」1920年x月 佐藤忠男『日本映画史』)。どんな名女形であっても出る幕ではなくなった。肉体それ自体が、あるいは女そのものが、その存在によって価値を主張する現代に足を踏み入れたことになる。

(大丸 弘)