| テーマ | 着る人とTPO |
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| No. | 517 |
| タイトル | 囚人 |
| 解説 | 刑事罰も刑務所もたいていの人には一生縁のないことだが、事件や犯罪ものを扱うことの多い新聞小説などにはよく出てくる。だから手錠をかけられた悪人がうなだれて歩くうしろから、眼をいからせた警官が、腰縄の端をつかんでいるとか、高い壇上の裁判官の前に、被告人や代言人が、丸太のような柵にさえぎられて並んでいる有様などは、探偵ものの愛読者ならばおなじみの場面だ。 第二次大戦前の刑務所――1922(大正11)年の名称改正以前は監獄――についての法規は、1908(明治41)年公布の〈監獄法〉に集約されている。その約100年後、2006(平成18)年に〈刑事施設および受刑者の処遇等に関する法律〉が施行される以前は、わが国の近代的行刑制度の実態は、この明治末の監獄法の条文によって、おおよそはうかがい知れる。 衣服等に関しては第89条でつぎのように規定されている。 在監者ノ使用ニ供スル衣服臥具食器及ビ雑具ノ品目ハ左ノ如シ また第91条に、「受刑者ニ着用セムル衣服ハ赭色トス」、とあって、これがなにかにつけて、またもののたとえにも言われた赤い獄衣だ。赭色とだけでははっきりしないが、柿色という言いかたもされていた。柿色の獄衣は、すでに1872(明治5)年に太政官から公布された〈監獄則〉で、またより具体的には1875(明治8)年の〈囚人給与規則〉できめられている。ただしだれでもが、またなにもかもが赤いわけではなく、刑事被告人とか、18歳以下の受刑者は浅葱色だった。布団も同様浅葱、つまり薄青だった。衣服には単衣、袷、綿入があり、すべて筒袖で、これは女囚もかわりなかった。 明治初年の牢獄はそれほど整備されたものではなく、牢名主こそいなくなったとはいえ、江戸時代の小伝馬町の牢を彷彿させるような部分もあったようだ。もっとも新聞挿絵などの場合は、挿絵画家が新しい情報の不足から、だれもがおおよそは聞かされてきた恐ろしげな古い牢屋の有様を、そのままに描いたものがなかったとはいえないだろう。 わが国にかぎったことではないが、古い時代の入獄の目的は、身体拘束のための監禁と、懲戒につきていた。破牢――脱獄を防ぐためのひとつの方法である戒具(拘束具)――鎖とか、手枷足枷のたぐいは、最初はとくに外役(監獄外での作業)には用いられていた。1872年の〈監獄則〉によると、重鎖、軽鎖、両鉄、片鉄の区別があったが、早い時期に廃された。1878(明治11)年に内務省は、無期徒刑囚が身につける鎖類のスケッチを公表している(→年表〈事件〉1878年12月 「内務省の布告」郵便報知新聞 1878/12/27: 1)。とくに規律が厳しかった陸軍監獄では徒刑人に鉄の首輪をつけさせていたが、これも1881(明治14)年9月公布の【太政官達】第81号によって廃された(→年表〈事件〉1881年9月 「これまでの諸規定を集大成した監獄則」報知新聞 1881/9/29 :1)。 柿色というような変わった色の獄衣を着せるひとつの目的は、仮に脱獄したとしてもすぐそれとわからせるためだろう。太いだんだら縞のアメリカの囚人服はおなじみだ。1879(明治12)年に陸軍同様廃されたが、それまで海軍の徒刑人の着る法被には、縄の模様や、大きな戒の字が染め抜かれていたのは、むしろ滑稽みがある。 1885(明治18)年に、軽罪で鍛冶橋の未決監に入獄した人物の手記によると、コハゼ付きの足袋は取り上げられたという。コハゼほどの大きさのものでも金属は許さない、という方針に従ったのだそうだが、明治10年代には、紐付きの足袋がまだ使われていたことのひとつの証拠にもなる(「入獄記」【東京経済雑誌】1884/9/20)。 開化当初の日本人は男女とも髪を結っていたため、獄屋暮らしには厄介だった。獄屋ではないが、貧困者の収容施設である養育院の1896(明治29)年のレポートに、「女性は例外なく髪を短く切り、短い人は5寸(15センチ)ぐらいにしている」とある(→年表〈現況〉1896年4月 「養育院(救貧院)の人々」報知新聞 1896/4/21: 5)。これは毛ジラミが多いための処置であると。監獄が養育院より衛生的だったとは考えられないから、とりわけ男性は断髪が早く進行してよい環境だった。しかしたとえば東京佃島監獄の場合、3年以上の収監者が断髪になったのは1880(明治13)年で、その理由は結髪では理髪係の者の手が回りかねるため、ということだった。明治13年といえば、娑婆の世間ではチョン髷を結っている男などよほどの変わり者だったのだが。 1908(明治41)年の〈監獄法〉における入浴回数は作業によってちがうが、原則は6、7、8、9の4カ月は5日に1回以上、それ以外の月は7日に1回以上、となっている。男性の理髪はすくなくとも月に1回、髭剃りは5日に1回、また、理由なく女性の髪を短く切ってはならないし、女性には髪を整えるための膏油の使用もみとめられている。明治中期、たぶん1890年代に埼玉監獄の女看守を経験した女性の回顧によると、 就寝までは二時間ばかり暇がありますから、その間に髪を結いなどいたします。元結いは一人に一本の規則で、本来ならば一人で銀杏返しに結うのでございますが、お互いに結い合ってもよいことになっております。 装いや衛生の問題ではないが、生後1年未満の乳児をもつ女囚は、満1歳になるまでは獄内に「携帯」することを許す、との条目もあって、西欧近代国家なみへの文明志向が、鹿鳴館のダンスだけではないことを示している。 ただし、1908年という明治末年のこの監獄法の内容で、明治の監獄の様子全体を考えるのはおそらくまちがいだろう。その時代の監獄は監獄ごとの差が大きく、それは典獄個人の考えかたによっていたともいわれる。監獄法規はそれほど細部にまで及ばないから、たとえば差し入れになにを許すか、などという点など、典獄、つまり刑務所長や、個々の刑吏の裁量次第、という部分も大きかったらしい。刑吏には出世の機会というものがほとんどなく、終身どころか、親子二代という人も多くて、狭量で、中にはやや問題のある性格の人物もあったようだ。 明治時代の新聞には監獄の探訪記事が数件残されている。1896(明治29)年の[読売新聞]のレポーターは、訪問が2月の厳冬の時期だったにもかかわらず、とにかく異臭に耐えられなかった、と書いている(→年表〈現況〉1896年2月 「東京巣鴨監獄の実情 上」1896/2/10: 付録1)。 東京には1895(明治28)年に巣鴨監獄が設置されたが(最初の名称は警視庁監獄巣鴨支署)、1922(大正11)年に巣鴨刑務所と改称後、1937(昭和12)年になって刑務所の機能は府中刑務所に移管した。その後は巣鴨拘置所となり、死刑囚と未決囚だけになった。刑務所時代には、門前は差し入れ屋などでけっこう賑わったようだ。障害者施設をつくるというと反対運動が起こるが、刑務所の方には誘致運動もあるという。 (大丸 弘) |