| テーマ | 着る人とTPO |
|---|---|
| No. | 518 |
| タイトル | やくざ/遊び人 |
| 解説 | とりわけ明治時代の新聞小説には、定職のあいまいな遊び人風の人間がよく登場する。凄みをきかせて相手の小さな弱みを言い立てておどし、なにがしかの金品をまきあげるのを商売にしている、《与話情浮名横櫛》の蝙蝠安のような手合いだ。なにかといえば尻をまくり、あるいは片裾をまくりあげ、着物はわざと身幅の狭い仕立――七五三五分廻し――にして、肩に手拭いをのせて芝居がかった見得を切る。はだけた胸には彫物がのぞく。それがやや古めかしい明治のやくざの舞台姿だ。 江戸時代は窮屈な管理社会でもあったから、いちどまちがいを犯して人別帳から外れたりすると、そのままアウトローとして生きるよりしかたがなかったようだ。蝙蝠安のモデルになった男も逃散(ちょうさん)農民のひとりで、無宿者として日のあたらない生涯をおくった人間だったらしい。こういう無宿者の多くが各地の博徒の群れに入った。 明治になると江戸時代のような無宿者――宗門人別帳を外れた人間――こそなくなったが、生まれ育った土地や、それまで生活の手だてをもっていた土地にいられなくなった人間は、いつでもいる。またそういう人間をへだてなく受けいれてくれるところもあった。その多くはきつい労働の作業現場だ。名目は近代的な会社名になっていても、肉体労働者たちは何々組という組織に属して、世話人、あるいは親分の統率の下にあった。うしろぐらい前歴をもってこのグループに身を投じた男もいて、そういう男は命がけの危険作業も進んでやったという。だいたいにおいてやくざ者の恰好は、肉体労働者の作業衣のスタイルが基本になっている。 清水次郎長や会津の小鉄といった博徒は、明治時代になってもなくなっていなかった。ちがうのは、博徒のほとんどが、たとえ隠れ蓑ではあっても「副業」をもつようになったことだろう。1893(明治26)年まで長命した清水次郎長は、晩年ではあったが郵船会社をつくったり、富士山麓の開墾に手をつけたりしている。 1926(大正15)年4月に、〈暴力行為等処罰に関する法律〉が公布される。暴力団ということばが使われだしたのはこの前後からで、1929(昭和4)年に東京市内の暴力団に対する取り締まりが強化されたときも、「所謂暴力団」という言いかたをしている新聞もあった。かれらは政党との関係がふかく、その首領は政界の某有力者の庇護のもとにあり、市内に500人の子分をもつ大親分、と報道されている(「市内居住の一味、実に五百余人」都新聞 1929/9/25: 13) この時代、暴力団がにわかにとりざたされるようになった理由のひとつは、不景気による社会不安から、保守政治家や財界人が、社会主義者の行動につよい怖れをもって、彼らの実力――暴力を利用しようとしたためともいわれる。思想としての国粋主義者のグループに混じって、きのうまでの博徒たちも、右翼の政治団体として認知されたのだ。 その一方で、新聞の三面には、いつもこんな記事の絶えることがない。 下谷数寄谷町の博徒親分八兵衛事杉村宇八は、表面空缶商を営みながら賭博を常業とし、一昨夜も浅草永久町の直柄やす方にて(……)両人と共に弄花(花札賭博)中(……)十三名の巡査が一同を取り押さえ、引致の途中大力無双の宇八は電車通りにて縄を振り切り逃走せんとしたるも格闘の末、四人の巡査に取り押さえられ昨日検事局送り。 小商人や居職の職人のなかには、店や仕事場を小僧まかせにして碁会所に入り浸ったり、手慰み(小博打)で気ばらしをするような人がいるのはふしぎではない。表通りのけっこう大店の旦那にも、勝負ごとに眼のない人はいる。そういう旦那衆を上客にして小さな賭場を仕切っているのがその土地の親分だ。子分の20人もいればいい顔で、たいていはそのまた上の親分の盃をもらって、島を預けられている。 こういう親分については歌舞伎の髪結新三(河竹黙阿弥『梅雨小袖昔八丈』)のなかの弥太五郎源七親分などがいい例になる。六代目三遊亭圓生は、この「親分」という存在についてこんなことを言っている。賭場を開いて旦那衆に遊んでもらう、そのコミッション――寺銭が親分の収入だが、それだけではやっていけないから、ときどき花会(はながい)というものもやって、土地の商人からご祝儀の包み金を集める。まあ町内の鼻ッつまみなんだが、これが役にたつこともある。それは蝙蝠安のような手合いがゆすりにきたときなど、親分に頼めば若い者をよこして追っ払ってもらえる――。 土地の親分というような博徒やその幹部たちは、堅気の暮らしをしている人より生活は派手で、リューとした恰好をしているのがふつうだ。ちょっと凄みはあっても金回りのいい、そんな男たちに熱を上げる女性はすくなくない。 戦後のことになるが、額から顎にかけての大きな切り傷をもつある暴力団の親分は、自分がからだを張って生きてきたのは、ぜいたくがしたいからだと、心易いひとに語った。車も、身につけるものも、口に入れるものも、超一流のものばかりで、身の廻りのことはすべて子分がしてくれる。自分でするのは尻を拭くことだけです、とわらっている。親分の、その金に飽かした、ダンヒルと、グッチと、カルダンづくめの装いは、なぜか向きあっている相手に、鎧でも着ているような圧迫感をあたえる。 親分格の博徒にしばしば侠客という肩書きのつくのは、清水次郎長が新政府の意向に逆らって、駿河湾に放置された幕軍水兵の遺体を収容したとか、国定忠治が天保の飢饉に遭遇して縄張りの村々に施しをしたり、農業用水池の整備に金を出したり、といったことのためだ。国定忠治の場合、十代で博徒のむれに入ってから、四十近くになって中風で倒れるまで、徹底的に縄張りの争奪にあけくれした生涯で、凶暴としかいいようのない人間に思える。賭場のあがりの内のどれだけを救恤(きゅうじゅつ)に回したかしれないが、縄張りの土地の人たちに恩を売っておくことが、それほどの犠牲的行為だったかどうか。 しかしその一方で忠治の生きていた時代の代官、関東取締出役に対する、農民ら民衆の怨みも深かった。どうしようもない権力への、怨念のような憎しみが、義賊だの侠客だのの伝説を生み、育てる。大隈重信はこんなことを言っている。 近頃は所謂侠客の徒が大歓迎で、左る筋の肝煎りにより、国粋会とやらいう様なものが組織され、大いに諸方に勢力を振るうに至ったと云う。博徒の親分が国粋であっては堪らぬ。我が武士道は、遂に降って浪花節芸人に落ち込み、更に下って博徒の群れなる侠客にまで落ち込んだのである。 もちろん、遊び人といわれる連中のなかには、文字どおりの遊び人で、辛抱のいる仕事が嫌い、つまりは怠け者で、いつも人生の大穴を夢見て、結局は親や女房や子どもや、まわりの人に頼ってのらくらしている連中も、この世の中には確かにいるようだ。 (大丸 弘) |