| テーマ | 着る人とTPO |
|---|---|
| No. | 515 |
| タイトル | 軍人 |
| 解説 | ミリタリー・コスチュームのマニアは、外国にはずいぶんいるらしい。それには理由がある。ヨーロッパではルネサンスにかかるころに、プレート・アーマー(plate armour)の時代が終わって、16世紀から19世紀半ばにかけては、ミリタリー・コスチュームのとりわけ華やかな時期だった。軍服の彩りもさまざまだが、比較的には赤が多い。すでに銃器が主役の時代なのだから目立つ色は損のようだが、真紅は着る人の士気を高める、という考えかたもある。そのうえあとの時代なら儀礼服にしか用いられないエポレット(epaulette)など、華やかなブレイド(braid)類や、大きな冠りもの、絵本に出てくるオモチャの兵隊そのままのすがたが、ナポレオン時代までの軍人や軍隊のイメージだった。 芥川龍之介が、子どもに似ていると笑ったのは、この種の軍装だろう。 19世紀後半、わが国がフランスやプロシアに倣って近代的な軍隊を作りあげようとしたときは、軍装はもはや見ばえを追う時代ではなくなって、近衛兵等の儀装用をのぞけば、実戦のための道具になっていた。それでも長いあいだ愛されたブレイドの多用は、日清日露戦争時の肋骨服にその名残を見ることができる。それから先、第二次大戦にいたる時期までの軍装は、実戦のための効率本位に工夫がなされ、改正がくりかえされていった。 とくに全体主義国家において、広場に整列した何千何万という兵士が、同一の装備をし、一斉に腕を高く振り、脚を高くあげて行進する、パレード美の壮観というものはたしかに認めるが、兵士の着ているもので胸を躍らす女性はいないだろう。 その改正の変遷を追っての近代日本軍装史に関しては、私たちは幸いよい研究書にめぐまれている(太田臨一郎『日本の軍服』国書刊行会 1980、柳生悦子『日本海軍軍装図鑑』並木書房 2003)。 また、本MCDデータベース〈近代日本の身装電子年表〉でも、身装〈事件〉年表中に、ジャンルのひとつとして「軍人」を指示した。ここをクリックすることで、近代の陸海軍の軍装に関する、約50項目のデータを、あるものは図、表つきで見ることができる。時代を追っての推移の具体的な理解はその方にゆだねることとして、ここではその理解に役立ちそうな、いくつかのエピソードをつけ加えよう。 軍装は国の制度だから、変遷の事実そのものを追うこと自体は、国の制度全体が不備だった明治初年以外は問題がない。しかし官報や法令全書で見ることのできる服制の条文以外のところにも、近代日本の軍隊や、兵士たちのすがたは見え隠れしている。 戦前多くの若者が初めて身につける軍服は、召集を受け入営したときだろう。徴兵検査でよい成績だった者のうち何パーセントかの若者は、その土地の聯隊に教育召集され、一年あまり軍人としての基礎訓練をうける。農家出身者など、生まれて初めて洋服を着る者もいて、軍袴(ぐんこ)を後ろ前に穿くなど、まごつく人もあったので、兵用図書『被服手入保存法』(1917)という小冊子を読まされる。この本の巻頭はつぎのような文章ではじまる。 一 軍服ハ尊重セサルヘカラス つづいて第二は、「端正ナル着装法ニ習熟スルコト必要ナリ」、第三は、「手入保存ニ注意スルヲ要ス」となっている。 戦前の兵営内のはなしを聞くと、訓練や武器の手入れというのならわかるが、兵隊たちが受けもっている営内の掃除、とりわけ便所掃除、炊事、配膳、そして身につけるものの手入れには、きわめてきびしい監督の眼があったようだ。便器がじゅうぶんきれいに磨けてなければ舌で舐めさせられたりした。 『被服手入保存法』のなかにはボタンつけはもちろん、破れやほころびの修繕の仕方が具体的にのべられている。「第三節 修理 一.縫方ノ種類及針足数」として、「一.グシ縫、二.マツリ縫、三.返シ縫、四.巻縫、五.掬ヒ縫、六.一針貫縫、七.針足数」の説明があり、縫い方の種類は女学校の裁縫教科書ほど数は多くないが、より実際的だともいえる。 戦場に行けば、なにからなにまで自分でしなければならないのだから、当然のこととはいえ、昨日までは鍬やハンマーをもっていた無骨な指で、意地の悪い班長の眼を気にしながら、おそるおそる運針をしている若者たちを想像するとほほえましい。しかし新兵にしたらほほえましいどころではない、日本の軍隊では有名なリンチ――往復ビンタの雨は、こうした被服の手入れのよしあし、着方の細部、ボタンなどの欠損、洗濯の仕方などについて、教育という名のもとに、きわめて日常的に行われたのだ。 肉親や親しい友人が入隊して、軍服姿の彼にしばらくぶりであうと、日焼けして逞しくなったというだけでなく、あのだらしなかった男の動作が見ちがえるほどきびきびし、あぐらをかいて座っていてさえどこかキチンとして、威があるとさえいえそうだった。「一般社会ニ対シ軍人ノ精神ト言行トニ自制的監視ヲ与ウル」とは、こういったことを指すのだろうか。 それにつづく文中にもあるように、明治天皇、大正天皇、敗戦以前の昭和天皇ともに、宮城内の日常でも、一般的な外出のさいも、軍服がほとんどだった。戦後の、スーツに中折帽すがたで、日本各地の民衆に「アッソウ」といって接した猫背の天皇とくらべて、馬上の颯爽たる軍服すがたの戦前の天皇は、いかにも軍国日本の象徴だった。 日常も軍服、というのはなにも天皇だけのことではない。乃木希典大将は晩年三宅坂で落馬して入院したとき、病院に持ってくるべき和服を一枚も持っていなかった、と報道されている。乃木は学習院院長の職にあるときも、軍服以外のものを着ていない。その点は文人ではあるが森鴎外も似ている。軍医総監の彼は乃木のような生え抜きの職業軍人ではないが、帝室博物館長時代も軍服で通勤した。彼らにとって軍服は、生きる精神を支える鎧でもあったかと思われる。 一般市民で日常軍服を着る人はまさかいなかったろうが、1919(大正8)年以後には、除隊兵には着用していた軍服一揃えが下付された(→年表〈現況〉1919年6月 「除隊兵への軍服下付」東京日日新聞 1919/6/22: 7)。軍隊に関係ない行事等に参加の場合でも、軍服で出席すれば羽織袴の代用となるとされた。しかし平時に、とくに都会ではそういう人は少なく、軍隊関係の行事には―出征兵士の見送りや在郷軍人会出席など、それを着て出てくる人があり、また農家では、労働衣にしている人もあった。いずれにしろ、乃木大将や森鴎外にとっての軍服とは縁がない。 (大丸 弘) |