| テーマ | 着る人とTPO |
|---|---|
| No. | 507 |
| タイトル | 女給 |
| 解説 | 流行のアイドルは、大正末から昭和10(1935)年頃まではカフェの女給だった、と回顧する人もある。 ビクターレコード発売の《女給の唄》がヒットしたのは1931(昭和6)年、これは帝国キネマの映画《女給》の主題歌で、映画の原作は広津和郎、前年に【婦人公論】に連載した問題作。『銀座細見』(1931)を書いた安藤更生が、「流石に広津氏は長年カフェへ通っているだけに、女給というものを知っている。あれが本当の銀座女給だ」と保証している。 そのころまでの銀座は、新聞社や出版社、大きな書店が集まっていたせいもあって、もの書きや文化人はよく通い、喫茶店やカフェはその溜まり場だった。広津の《女給》を問題作というのも、そのなかに菊池寛をモデルにしたらしい人物が登場しているため。そういう種類の客を相手にしているという点からも、銀座の女給のレベルは高かったといえるのだろう。そのなかには後日、作家として世に出た女性がいるし、高名な小説家と口がききたい、作家志望の文学少女もチラホラいたそうだ。 女給ということばは1910年代前半、大正になったばかりのころから出てくるが、最初のうちは、女給の唄の時代の女給よりは内容が広かった。1914(大正3)年に[都新聞]に出た「女給評判記」では、劇場や映画館の女案内人を指している(→年表〈現況〉1914年1月 「劇場の女給」都新聞 1914/1/1: 9)。それによると、帝劇の女給は24人いて、「(某、某)などという美人が居る。あの通り白いエプロンで靴を穿いて可愛い姿をして客案内をする」、新富座の女給は、「(某、某)などという美人が皆日本髪の前垂れがけという下町風」、活動の女給については、活動を見たいより女給を見たいためにくるほどの常連ができていて、「女手品師みたいな上っ張りを着ている」とある。 劇場の女給といえば、東京のいわゆる緞帳芝居のひとつである、本郷の春木座、鳥熊の芝居の女給にふれなければならない。鳥熊の芝居をくわしく書きのこしているのは岡本綺堂で、東京の劇場でいわゆる女給なるものを採用した最初、と彼は断じているが、上方式によったものであろう、とも言っている。鳥熊ではこの女給のよび名をぜんぶ「お梅さん」にしていて、冬は黒木綿、夏は中形の浴衣の揃いを着せていたそうだ。お梅さんは女客の連れてきた赤ん坊の子守までしてくれたし、この劇場で雨の日に観客の汚れた下駄を洗ってくれたのも、男衆といっしょにお梅さんの仕事だったかもしれない(岡本綺堂「ランプの下にて―明治劇談」『明治演劇年表』1935)。 関東大震災前の浅草では、活動写真館の女給、つまり女案内人は公演の名物のひとつになっていて、各館とも揃いの洋装で、競争のように美しくみせようとしていた(→年表〈現況〉1920年8月 「色さまざまな女給連の服装」都新聞 1920/8/3: 5)。その各館のなかで一番ていねいで親切なのは、根岸興行部に属する活動館の女給たちで、「黒(東京倶楽部は紫紺)の落ちついた洋装の上に、純白のエプロン楚々として、いずれも美麗な、上品な娘たちばかりである」(「女給物語」読売新聞 1916/2/20: 6)。 時代はすこしあとのことになるが、これとは反対の意見もあるから、すべての客の好みに合わせるのはむずかしい。「女給の衣裳は本当に何とかならないものか。浅草興行組合の一考を煩わしたい。カフェの女給式、看護婦式、掃除婦式、西洋寝衣(ねまき)式、市街自動車車掌式で、智恵のないこと夥しい」(「映画界」朝日新聞 1921/6/24: 6)。 女給という呼び名は、そのほかにも明治・大正期の記録類には散見する。もちろんそれは女給仕人の略のはずだから、明治初年の西洋料理店、ホテルあたりでは早くからつかわれていた。ただし女給仕人では長すぎるし女給ではなんだかわからない、という期間は、女ボーイという言いかたがふつうだった。そしてやがて1920年代(大正末~昭和初め)のカフェの女給の時代がくる(→年表〈現況〉1924年6月 「雨後の筍のようにふえる女給」大阪朝日新聞 1924/6/19: 2)。この時代でも、女案内人とのまぎらわしさを避けてか、カフェのいわゆる女給は、ウエートレスと呼んでいる新聞記事などがある。 ところが、時代を昭和初期に限定しても、「女給にもカフェの女給、バーの女給、喫茶店の女給と、それぞれ異なった情緒と味をもっております」(婦人職業指導会『最新婦人職業案内』1933)とあって、一様でない。 【婦女界】が1931年10月号で職業婦人特集をしたとき、「女給生活のうらおもて」を書いた女性は、銀座資生堂裏の高級レストラン「春」の女給。この店はその数年前、菊池寛が女給を主人公とした【婦女界】連載の「壊けゆく珠」の舞台につかった店で、作品のヒロインもこのレストランの女給、ということになっている。 広津の描いた銀座あたりの女給とは、だいたいカフェの女給をさすのだが、そのカフェとはどんなものだったか。この時代の警視庁保安部の定義では、「カフェ、バーとは、様式の設備を有し酒類を販売し、且つ婦女を使用する飲食店」なのだが、1931年の2月に、「西洋料理店、日本料理店、蕎麦屋、鮨屋、おでん屋、天麩羅屋(……)はカフェ、バーの取締範囲外とす」と限定されていた(「カフェーの定義」都新聞 1931/10/26: 2)。なぜこんなに細かい規定をしたかというと、カフェ、バーは飲食が目的の営業ではないとして、遊興税、飲食税を科するため。 簡単にいえば、カフェは女給にサービスしてもらうための店であり、カフェにくらべればバーはまだ、酒を飲ませる店、という目的がつよい。そのためどのカフェでも女給の身装には気をつかい、衣服は自前だから、汚れるからといって銘仙まがいのものなど着ないよう、おなじきものを何日も着てこないよう、開店前に、店主が点検するような店も少なくなかったのは当然。初期のカフェの女給が、きものの上に白いエプロンをして、背中で大きなリボンのように結んでいたのはよく知られている。しかし広津の時代には、そんな子どもっぽい恰好は、過去の思い出になっていたようだ。 ところが、上に紹介した高級レストラン「春」の場合も、筆者はこんなことを言っている。 なんにしても私達は、身なりに相当かかります。きもの一枚新調するにしても、安ものは褪色したり生地が傷むので結局駄目です。夏物は汗になりますし、冬物は裾が切れたり、汚されたりしますので手入れが大変です。ひと冬に二度も洗張りすることもありますので、その洗張代、仕立代などで、一ヶ月平均四十円くらいはかかります。 記者の紹介では、この女性は「あでやかな銀杏返しに白いうなじ――銀の平打ち簪が紅い帯揚げに映えて」云々、とあって、現代のレストランのウエイトレスとは、かなりちがうサービスを提供していたらしい。彼女自身、「女給といえば、誰もみなエロサービスをするもののように宣伝されることは、真面目に働く者にとって、本当に迷惑」と言ってはいるものの、それはいわば語るに落ちるということで、この時代、舞台がかならずしもカフェでなくても、女給という名に負わされていたイメージは、そうちがわなかったようだ。 (大丸 弘) |