| テーマ | 着る人とTPO |
|---|---|
| No. | 502 |
| タイトル | お寺と坊さん |
| 解説 | 維新後に権威の落ちたものはいろいろあるが、仏教寺院もまちがいなくそのひとつ。しかしこれは考えるまでもなく、江戸時代の仏教が切支丹禁制を目的とした寺請制度に利用され、庇護されすぎていたことの裏返しだ。 一種の人別――戸籍法ともいえる寺請制度は、民衆の側からは檀家(だんか)制度という。檀家というのはそれぞれの寺の信者のことなのだが、檀家は寺をえらぶ権利をもっていなかった。ひとが死ねば、法要は所属する寺の指示のもとにおこない、死者の亡くなった日――命日のほか、初七日、四十九日とか、何回忌などという年忌法要がつくられ、たくさんの法要の施行が昔から決まったことであるかのように、また檀家の義務のように教えこまれた。 明治初年は天皇政権の思想的基盤である神道のテコ入れのため、政府による神仏分離のキャンペーンが興された(通称「神仏分離令」「神仏判然令」ほか 【太政官布告】1868/4/5)。廃仏毀釈は法令の文脈の誤解と言ってよいのだが、各地で重要文化財級の仏像が二束三文で売りに出されたり、仏教建築が破壊されたりする被害がひろがった。 島崎藤村の『夜明け前』には、主人公・青山半蔵が父親の葬儀を神葬で執り行うことを寺の住職に告げ、住職がそれを納得するくだりがある。神葬――つまり神道方式の葬儀は、その時代のニュースタイルだったので、それは中山道の馬籠のような田舎でも例外ではなかった。 そんな廃仏毀釈の嵐があっても、「法事」という慣習はさして弱まったようにはみえない。これは先祖崇拝という習慣、ないし心情が、仏教の地位や教義などよりももっと、日本人に古くから根づいていたためだろう。事実、制度的に檀家を失い、それまで300年安定していた経済的基盤をなくしたようにみえる寺だったが、葬式と法事の執行は任されつづけたおかげで、生きのびることができた。 もっとも、僧侶や、法要のあり方への明治人の視線はきびしくなっていた。東京深川の豪商某は祖先の仏事に際し、まったく理解できない漢語の三部経の延々たる音読によって、聴衆が睡眠とあくびの無用の時間を浪費することを憂い、その中の阿弥陀経のみの訓読をもとめたところ、人々も初めてその教えを会得し、ある有名な導師もこの改良に賛成した、という例がある(中外商業新報 1889/3/27: 2)。 1900(明治33)年に開拓社が刊行した『如何にして生くべき乎』は、産婆からはじまって80あまりの同時代の職種について、その具体的な標準的収支を調査したものだ。末端寺院の事例として開拓社のあげたのは農村の一寺院で、そのために収入はすべて米の石斗になっていてやや判りづらい。ここで編者は「一部落一寺なれば其の部落中を皆檀家として百五十戸」としている。各檀家の田地のうち、三段くらいが寺家督という名目で収穫分が寺の収入になる。それが米にして3石9斗、檀家1戸より1升ずつ集める盆の施餓鬼料が手取り1石2斗、春の彼岸と夏のお盆に、檀家中3分の1の50軒くらいに棚経を読みに行けば、1戸10銭のお布施として10円。葬礼は良家は10円くらいの収入になるが、中以下の家であると、葬式から四十九日までの布施、香奠その他併せて3円くらいなので、150戸の家で1年に平均4人の死亡者として12円。仏事の収入は、一周忌、三年、七年、十三年等の仏事のある家が年に30戸として、1回のお布施の平均が50銭として15円。正月に檀家よりのお年玉が計2円。麦の収穫時に紙札1枚ずつを配ると麦1升ずつの特別収入。上の総収入を米、麦ともお金に換算すると、136円20銭になる。 一方、支出は、本山への上納金、組合費、紙・線香代併せて年およそ12円。法衣等を新調のときは檀家より寄付を集めるから差しひき124円20銭がのこる。家賃は不要、薪類は所有の林からひろえる。食料は麦飯を常食にし、副食は大根、豆腐、コンニャクくらいなら1カ月ひとり3円50銭で足りる。もし妻帯していれば倍の7円。小遣い2円として、のこりが16円20銭、これが夫婦の衣服料などに回る。「もとより豊かなる経済にはあらざるも神職に比しては優等といわざるべからず」と。しかしともあれこれが150軒の檀家の存在が前提なのだから、村を去る人の多かった明治時代、地方のお寺の坊さんは、どんなに不安な日々だったことか。 文中に、もし妻帯していれば――、とあるが、1872(明治5)年4月25日、僧侶の肉食、妻帯、蓄髪、法要以外の平服着用勝手、という【太政官布告】が出て以後、時代が下がるにつれ、むしろ独身の僧侶はめずらしくなってゆく。人民監視の道具として仏教を利用する必要のなくなった行政は、仏事や僧尼のありかたについて干渉する理由も失ったのだ。 布告中で平服といっているのは僧侶の法服以外の、ふつうの人の着ている服、との意味で、それまではふだんでも坊主が浴衣を着て団扇を使う、などということはたてまえとしては許されなかった。1887(明治20)年、明治天皇を京都駅に出迎えたときの本願寺法主大谷光尊は、洋服を着用していて、古今未曾有のことと新聞に書かれた(「本願寺法主大谷光尊、天皇の出迎えに洋服を着用」東京日日新聞 1887/2/6: 4)。 法服(ほうぶく)は宗派によるちがいが大きい。標準としては、正装の基本は内に腰継ぎのある大衣を着、外に袈裟をかける。袈裟に五条、七条など、細長い布を綴(は=接)いでつくった、そのハギの数による区別がある。いちばん下級の五条から、もっとも多いのは二十五条まであるそうだ。錦の袈裟などは、ハギの多い、つまりかなり巾の広い袈裟になるのだろう。久馬慧忠の『袈裟のはなし 仏のこころとかたち』(1989)という本まであるように、袈裟ひとつとっても漢字漢語の多い蘊蓄はなみたいていではない。法服のなかでも袈裟だけは、本来はインドのサリーであり、釈尊みずからが一種の規定を設けたことになっている。そのため明治初年以来の法服改正の動きのなかでは、袈裟以外の法服はしょせん土地土地の、そのときの風俗を踏襲しているに過ぎないのだから、あまりこだわる必要はない、という意見もあり論争がひろがった(川口高風「近代の僧服改正・改良・改造論をめぐって」『禅研究所紀要』1997)。大谷光尊の洋服姿はあくまでも平服であり、法服ではない。 坊さんの着衣を衣体(いたい)というようだが、その規定のもっとも簡略とおもわれる日蓮宗の、ごく最近の規定をひとつの例に挙げればつぎのようになる。 僧侶の法服とは、袈裟、袍衣、附装の三種である。法服のうち儀式に着用するものが礼装、平常着用するものを常服という。礼装は階級によって、柄も色も細かく分かれているので、ここでは日常目にするお坊さんの着ている常服についてだけ言う。 袈裟 折五條、法衣 道服または布教服、 『仏教事物問答五百題』(安藤正純 1898)という本を見ると、三衣とは何々なりや、という問に対し、一に大衣、説法、受戒のときの衣。二に七条、衆僧行事、講経、齋会のときの衣。三に五条小衣、道行衣とも雑作衣ともいい、外出、掃除などするときの衣、とあって、これはTPOの区別ということになる。しかし、一般人にとっては関係のないことだが、僧侶の身分階級による、身につける法衣、法具の区別はたいていの宗派でおそろしく煩雑、晦渋をきわめる。これはもともと僧侶の職階制度が、大学の助教・准教授・教授などとは比較にならないくらい複雑なせいもあるだろう。一般人から見ると、帽子(立帽子)をかぶっていたり、頭にかぶさるような三角の襟(僧綱襟=そうごうえり)を立てていたり、白いマフラーのようなもの(帽子=もうす)を頸に巻いていたり、紫や緋の衣を着ていたりすると、きっとえらい坊さんなのか、と想像するだけだが。もうひとつ、坊さんの締める帯は、ふつう丸絎(まるぐけ)といって中に綿の入った、太い水道のホースのような形だ。もとはといえば荒縄かなにかを帯代わりに用いたものが、リファインされたものだろう。 妻帯することも平服も蓄髪も、親鸞の末裔として真宗の僧侶が先頭を切っていた。明治末期のことだが、ある真宗の名刹で僧侶の何人かが五分刈りよりすこし長いくらいに、髪の毛を伸ばしている。その理由を聞かれると、寺のなかにだけいるならいいのだが、自分たちは市内の某大学に週何回か講義に行っているので、丸坊主だと目立って――と苦笑したという。江戸時代には坊主が平気で吉原に出入りしていたのだから――もちろん身分を偽って――坊さんも気が小さくなったらしい。 (大丸 弘) |