近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 509
タイトル 花魁/娼婦/遊廓
解説

1956(昭和31)年に公布された〈売春防止法〉は、売春行為そのものにとどめを刺しはしなかったが、大きな転機となったことはたしか。日本の売春制度の歴史のうえで、これに先だつもうひとつの大きな転機は、1872(明治5)年10月の人身売買禁止の布令、いわゆる〈娼妓解放令〉(→年表〈事件〉1872年10月 「人身売買禁止の発令」【司法省布】第22号 1872/10/2)。この法令、また翌年12月の東京府貸座敷渡世規則、娼妓規則等がおもなねらいとしたのは、文明諸外国の手前都合のわるかった娼妓の拘束をゆるめること、および性病の防止だった。〈娼妓黴毒検査規則〉が警察令として公布されたのは1889年(明治22)年。政府には売春そのものを防止しようという意志はなかった。むしろ、貸座敷規則、娼妓規則等の制定によって公娼を制度化し、その監視をつよめることで性病の蔓延をふせぎ、いわゆる「良家の子女」を護ることを一義的に考えた。議論はあったが、この時代の世論もおおむね、その考えを受けいれていた。

その結果、江戸時代ほどとはいえないまでも、各地の古い廓(くるわ)は、明治時代を通じてほぼむかしの面影をたもちつづけた。為政者の、都市住民にとって安全な売春施設は必需品なのだという信念と、しかし文明諸国の手前、それはやはり都市の恥部と考えなければならないという配慮との揺れうごきが、1868(明治元)年に造って、1881(明治14)年7月に取りつぶしになった築地新富町の新島原遊廓、また帝国大学間近の根津遊廓の、1888(明治21)年の深川洲崎への移転などに示されている。

さびれたとはいえ吉原は、まるで世話狂言のような廓遊びのスタイルを、そう急には失わなかった。吉原がかなり大きな変貌を余儀なくされたのは、1911(明治44)年の吉原大火、そして1923(大正12)年の関東大震災のためだった。そのたびに廓の古いしきたりのいくつかが消えた。しかしなかには時間をおいて復活するものもあった。たとえば花魁道中がそうだった。また京都では島原遊廓の「かしの式」がそうだ。ただしその実質はまったくちがったもの――単なるショーになっているものもある。

そうした古いしきたりのなかでわりあい長くつづけられたのが、花魁による張見世だ。遊客を誘うために娼婦が店頭にいならんでいるというだけなら、それは吉原だけではない。北欧諸国の「飾り窓」のような有名な施設もある。けれどもわが国の廓、とりわけ新吉原の張見世ほどの華やかさはほかにはないだろう。1899(明治32)年正月の【都の花】はそれをこんなふうに描写している。

五丁町に軒を列べし各楼にて春の店張の有様は相変わらず花井楼一派が友禅の花模様に頭には花簪をかざし厚化粧のコッテリしたる能く言えばお姫さま、悪く言えば公園の見世物なる都踊りか玉乗の女らしけれど、赤ゲットの客にはこの方が受けるとは浮世はさまざま、昔風の櫛笄、金ピカの仕掛に立兵庫も混じりて、七面鳥の羽拡げたるようなるは竜ヶ崎さては成八幡に止めをさし、其の他はアッサリしたる芸子風とむかしの女郎風を折衷したる拵え、金糸銀糸の繍(……)
(吉原雀【都の華】1899/1月)

張見世の花魁は格子の内側に、美しく装っていならび、自分をえらんで買ってくれる客を待つ。まるで等身大の雛人形のようだったから、それを見に行くだけの冷やかし客も多かったし、近所の女こどもも、「お女郎さんを見に行こう」などと言って見物に行く。

張見世の花魁は、髪は大きなシャグマか、古風には役髪といわれる立兵庫、紫天神などに結い、芸者でいえば出の衣裳にあたる「しかけ」姿で客を待ち、遊客の指名があると二階の「ひきつけ」で対面の挨拶がある。ひきつけの花魁は張り肘をして胸をそらし、婚礼の三三九度にならった堅めの杯事をしなければならない。すこし散財をする気であれば、芸者や幇間(たいこもち)を呼んで一騒ぎすることもある。廓の芸者は花魁の手前色事はないから、芸の優れた妓が多く、吉原の芸者、幇間は修業のきびしいことで知られていた。

さて花魁の本部屋に通されて、ここではじめて女はしかけを脱いで長襦袢姿になる。しかけはもともと女房装束の褂にあたる放(はな)ちきもので、わが国の伝統では、正装の外着は帯をせずに曳く。婚礼の打掛とおなじもの。しかけという言い方は廓でだけ使うことばで、しかけも打掛も漢字では「裲襠」と書くことがある。ただし婚礼の打掛がたいていは白無垢であるのに対し、花魁のしかけは華やかな色をつかい、とくに幅広い繻子地の掛襟のついているのが特色。裁縫書のなかには、なんのつもりかこのしかけの構造を、くわしく説明しているものがある。

昔の花魁の仕かけは大吹きと云って、二寸より二寸七八分位まで吹かし、二枚重ねあるいは比翼付けに仕立てました。表は刺繍など施したる通しのものと、胴抜のとあります。(……)通しにても胴抜きにても、心をすっかり一枚通り入れて口綿入れ仕立にいたしましたが、只今は吹きも細くなって四分か五分位、普通の着物と変わりませぬ。ただ襟にのみ鹿の子をかけて昔の様にしたのもあります。
(東京和服研究会『実用裁縫秘訣』1921)

しかけの出ふきが大きく、重々しい衣裳だったことがわかるが、震災前までに、それがふつうのきものとあまり変わらないものになっていたらしい。

しかけの下は下着の長襦袢だから、寒いときは花魁はしかけを2枚重ねて着た。花魁は長襦袢の下に湯文字、つまり腰巻をするが、道中のさなかに腰巻をずり落としてしまったという、腰巻高尾のはなしにあるように、この腰巻には紐がついていず、端を挟んでおくだけ。廓では用心のため女に紐をつかわせない習慣があった。

12時頃まで待ってもお客のつかなかった女は、お茶を挽いたので、お内緒、つまり主人のところへ詫びに行ってひきとる。張見世はいわば人権蹂躙の上塗りだったから、放任されていたわけではなかった。売春関係は一般に地方行政の管轄で、張見世や客引きを禁じ、代わりに写真を貼りだす場合もあった。

芸者とちがって花魁の衣裳は、新聞や三越のパンフレットで宣伝されることはない。それは彼女たちの衣裳が、世の中の女性たちの着るものと、あまりにかけ離れているから、というばかりではない。新しい時代にあっては、もはや彼女たちの存在自体が否定されるべきものと、だれもが知っていたからだろう。

じつをいえば、花魁と呼ばれている吉原など廓の飼い鳥よりも、ある点ではもっとみじめかもしれない女性たちがいた。それは行政や、とりわけ警察が、銀蝿かなにかみたいに憎んで、追い散らすことに腐心していた私娼たちの群れだ。兵庫髷も華やかなしかけもなく、眼にはつかないが、都会のいたるところで、からだを売って生きていた女性たちだ。救世軍を中心とした廃娼運動の盛りあがった1890(明治23)年頃、全国の遊廓総数が760余ヶ所、そこで営業する娼妓は10万人に近い、という調査がある(「娼況視察者の帰阪」大阪朝日新聞 1890/12/24: 4)。

(大丸 弘)