| テーマ | 着る人とTPO |
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| No. | 506 |
| タイトル | 歌舞伎役者 |
| 解説 | 落語家が噺(はなし)の枕に、御婦人のお好きなものは、芝居、唐茄子、芋、こんにゃくといって笑わせる。好きといったところで、ふところ具合も暇もかぎられている庶民が、どれほど芝居を見られたのだろう、という疑問がある。それに対して、いやむかしは、子守女でも立ち見にチョイチョイ木戸をくぐれるくらいの、安直な小屋がけ芝居がいくらもあったのだと説明する人もある。 明治の初めには新富座、歌舞伎座のような外国の賓客も訪れるような劇場と、庶民相手の小芝居という区別があり、小芝居のすこし格の上のものを中芝居ということもある。 岡本綺堂は、彼がまだ14、15歳で、芝居というものを見はじめた1885(明治18)年頃について、大劇場は新富、千歳、中村、市村、春木の四座、中芝居は寿、桐、中島座、小芝居は赤城、浄瑠璃、盛元高砂、開盛座の名をあげている。その4年前の1881(明治14)年、児玉永成の『東京案内』をみると、芝居案内として、新富、久松、猿若、市村、春木、中島、桐、寿座をあげ、小芝居として戸山、倭、浄瑠璃、栄富、喜升座をあげている。その前後のいろいろな記録をみても、歌舞伎座、新富座のような大劇場とちがって、小芝居の盛衰は激しいらしく、実態がつかみにくい。東京案内には一幕見の代金が新富座で2銭、寿座で1銭5厘とあり、小芝居の値段は出ていないが、せいぜい1銭までだろうから、なるほどそれなら芋やこんにゃくと並べられる。因みに、1888(明治21)年末の役者揃いだった新富座は、一番高い上等桟敷が一間3円50銭、大入り場が15銭と10銭(→年表〈物価・賃金〉1888年12月 「新富座入場料金」都新聞 1888/12/2: 2)。 明治時代の歌舞伎役者には等級があり、それによって納税額に格差があった。2等は3等の2倍、市川團十郎、尾上菊五郎など一等俳優は2等の2倍になる。この等級は役者の世界での地位にしたがっているが、その地位なるものはかならずしも役者としての技倆には一致しないし、まして人気とは関係ない。役者の地位には名題、名題下というもっとも基本的なものがあるが、じっさいはもっと複雑のようだ。中芝居小芝居というものは、映画館の隆盛によってほぼ消滅する。第二次大戦後まで残った小芝居といえば、旅回りを専門にするものか、歌舞伎とはまったく系統のちがうジャンルの新演劇だけだ。関東大震災頃までは細々と存続していた小芝居はそれとはちがい、演目も演出も大劇場のそれとちがわず、多少は俳優の交流ももちながら、しかし別格のもの、ときめつけられていた存在だった。 交流といっても、多くは人気や技倆の落ちた俳優が格下の小屋にまわってゆくので、師匠から勘当されたり、またなにか不始末をしてとび出す、といったこともよくある。不始末というと女がらみのことの多いのは、職業柄しかたがない。二世尾上菊之助の悲恋は映画《残菊物語》で有名だが、師匠のもとにいられない事情があって上方へ行く、という例はわりあい多い。菊之助の場合は本気だったらしいので悲恋、ということになるが、贔屓の女客と茶屋で色事をするのは、女客にとっては遊び、役者にとっては商売のうちだ。それだけに相手がだいじな贔屓筋であれば、それなりの気遣い、心遣いが必要だ。 小芝居の役者が大劇場に出られた例はごく少ない。その場合は改めて、たとえば團十郎に弟子入りする、という例が多い。大幹部俳優でも、劇場の格、ということにはかなり神経質だったらしい。團十郎張りの芝居をして二銭團州の異名があった小芝居出の役者板東又三郎が歌舞伎座に出演したのだが、それに腹をたてた九代目が舞台を削り直せといったのは有名なはなし。 東京の、とりわけ下町人種にとって、歌舞伎じたいも歌舞伎役者も、現代よりはずっと身近な存在だったのかもしれない。それは芸者についてもいえることだが。しかしそれだけに遠慮のない悪口や渾名もとびかっていた。明治時代の役者にはよく、本人の嫌がるような意地の悪い渾名がつけられている。三世秀調はその顔つきから逆さ瓢箪といわれた。板東喜知六がちりれんげ、實川延二郎の顎なし、といわれたのもおなじ。大谷馬十(ばじゅう)はすぐ上気するので茹で蛸、五代目尾上菊五郎の弟の家橘(かきつ)は口調から鳩ぽっぽ、四代目中村芝翫(しかん)はセリフを忘れるのでパアパア、などなど。しかし役者の方も負けてはいない。自分の演技にブーイングを発した向こう正面の客にむかって、熊になにがわかるもんか、と怒鳴った役者もあったそうだ。向こう正面桟敷には鉄柵があるので、俗にここを熊といっている。じつは一番見巧者(みごうしゃ)のいるのがこの桟敷なのだが。 名題の役者は、そのほとんどが自分の子どもや、そうでなくても身内から後継をつくったから、芸者のように、となりのミイちゃんが今じゃア柳橋の売れっ子よ、というような例は少なかったろうが、それはなんのだれというような名跡の役者の場合で、小芝居の役者などは、芸者あがりの女房でももって、その辺の横丁に遊芸の稽古所などを開いていることが多かった。 一目見てだれにでも役者稼業とわかるのは女形、とりわけ女形役しかしない真女形だろう。現代では六代目中村歌右衛門が、生涯を真女形で通した。 1897(明治30)年の[読売新聞]にこんな記事があった。 黒縮緬三つ紋の羽織に南部の単衣、裾長に踵を打たせて、眉毛を剃りたる優男(やさおとこ)、十八九の美形を引き連れて、塔ノ沢より小田原辺を遊び回り、その名を問えば市川いろはとて、以前柳盛座へ出たる俳優と答えしよし(……)。 じつはこの若者、役者を装った窃盗七犯のお尋ね者だったのだ。黒チリの羽織はふつう女のもので男が着るとニヤける。この時代の好みではあったが、南部縮緬の単衣も同様。 役者は化粧の必要上眉毛を剃っているのがふつうで、女形は描き眉毛もせず、江戸時代はあたまを鬘(かつら)下地という独特の髷に結って、きものも襟を抜いて着、ほとんど女性の恰好、居住まいで生活する人もいて、女房をもって子どものできるのが、ふしぎにさえ思えたそうだ。 (大丸 弘) |