| テーマ | 着る人とTPO |
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| No. | 504 |
| タイトル | 花柳界 |
| 解説 | 1897(明治30)年に刊行された金子佐平の『東京新繁昌記』があげている、東京の主な芸者町はつぎのとおり。新橋、日本橋、芳町、柳橋、茅場町、吉原、浅草公園、洲崎、烏森、神明、赤坂、神楽坂、講武所、湯島天神。芸者の総数は、たとえば1889(明治22)年の『大日本統計表』によると、55,350人ということになっているが、もとよりたしかな人数はつかめない。 芸者がいるだけでは芸者遊びはなりたたない。日本座敷をもつ料亭、和装、邦楽、この3つの存在が欠かせない条件となっている。明治時代にはこの3つは、人々の日常生活のなかに、ごくあたり前に存在していた。近代80年のあいだに、この3つともが、程度の差こそあれ大衆から縁が遠くなっている。 芸者をあげてのお座敷遊びは、ふつう花街(華街)といわれる場所でする。芸者町ともよんでいる。花街の中心には有名な料亭、もちろん会席料亭があり、明治の東京では新橋竹川町の花月、下谷同朋町の伊豫紋、山谷吉野町の八百善などはよく知られていた。 芸者の寝起きしている家が芸者屋で、東京では置屋ともいい、そこに客をよぶわけではないから、割合こぢんまりした家が多い。それでもさすがに小ぎれいにしていて、格子や小さな植え込みの具合などでなんとなくそれとわかる。 また、料理は料理屋からとりよせて遊ばせ、宿泊もさせる待合というものがある。料理屋と待合の区別ははっきりしていて、料理屋で客を宿泊させることは禁じられているのが建前。だから飲み過ぎたお客がごろ寝するにも枕はなく、座布団を丸めて使うか、女性なら床の間でも枕の代わりにするしかない。この辺のことを、八代目春風亭柳枝が「王子の狐」のなかで巧みに演じていた。加えて、芸者たちの商売を斡旋する検番がある。そういうしくみになっている花街が、大戦までの日本の大都市には、かならず何カ所かあった。料亭、待合、置屋を合わせて三業とよぶ。 芸者遊びは、客が会席料理屋にあがり、料理屋を通して検番に、呼びたい芸者の人数や、お名指しの場合は名前をつげ、検番から芸者屋に連絡が入る、という手順だ。検番にはその土地の芸者のリストがあって、いまあいているかどうかがすぐわかるし、先のお約束のあるなしも一目瞭然にわかる。だから検番は芸者の動静にはくわしく、芸者町の監視のような役割ももっていた。 芸者のお座敷は文字どおり畳敷きの日本座敷で、お客ひとりひとりの前に黒塗りの独り膳がすえられ、お客と向かいあって芸者がすわる。芸者がお客の横にきてお酌をすることもあるが、芸者には膳はすえない。お客の人数にくらべて芸者の方がずっと少ないのがふつうで、芸者は客のあいだを回らなければならないから、お膳のすえようがない。また独り膳のならんだ前の畳は、芸者とお客の遊びの舞台にもなるのだから、大きなテーブル席になると、芸者は動きようがなくなる。 芸者が日本料亭以外の――天麩羅屋や洋食屋へ行くときは「出の衣裳」は着ない。黒紋付裾模様の出の衣裳を着て出るお座敷では、襖をあけて、「こんばんは」と入るときから、きまったスタイルがあり、三味線をとりあげて長唄を一段、それから軽い端唄を三つ四つで、一区切り。これを「お座敷をつける」ということもある。お客のお好みで長唄でなく清元のこともあるし、端唄づくしのこともあるし、とくにお名ざしで義太夫のうまい妓が呼ばれることもある。昭和に入ったころから、長唄だの清元だのに興味をもたないお客がふえだした。1930年代後半(昭和10年代初め)の軍需ブームのころになると、東海林太郎や渡辺はま子の注文ばかりになった。芸者はもちろんお客のお好み次第に、なんでも弾きも歌いもするが、長唄のお師匠さんのところへ通って段ものの修業などするのが、バカバカしく思えてくるのだった。 明治・大正期までは、東京や大阪などの大きな都市なら、いくぶん誇張していえば、芸者はどんな巷にもいる身近な存在だった。3、4人の仲間が寄って酒をくみかわそうというときに、思いつきでちょっと近所の妓を呼びにやれば、三味線を抱えて走ってくるような、気がるにつきあえる相手でもあった。 1913(大正2)年9月の【婦人画報】によると、昨今新橋辺では、酒席に侍る芸者へ、客と同様の膳部を据えるのが流行している、とある。大戦間近になるころには、芸者をつかまえて「お前」というような客は少なくなる。芸者の格が上がったのだ。 芸者の芸は古典邦楽を主なものとし、料亭の料理も伝統的な日本料理、芸を披露するのは柱に染みひとつない日本座敷、彼女たちの衣裳はもっとも洗練された伝統衣裳。衣裳についても、和装の洗練の、ある頂点をきわめたのが昭和戦前期の芸者の衣裳だった。その事実を、鏑木清方は伊東深水との会話で認めている(『鏑木清方文集 第6巻 時粧風俗』1935)。 海外からの賓客は、たいていは一流料亭での芸者遊びに招待され、彼女らが披露する日本の伝統芸術を鑑賞した。チャップリンも、アインシュタインも、ヘレン・ケラーも――。芸者の「芸」とは芸術家の芸、という誇りさえ持たされているようだった。 その一方で、たとえば永井荷風の書いたものにでてくる芸者たちは、彼の眼からみればおしなべて、無教養で迷信深い売春婦以上のものでない。 芸者と花街をなりたたせている条件――料亭の日本料理、和装、邦楽――に対しては、べつの見方もある。そのひとつは人身売買についての認識だ。芸者のほとんどは子どものときに芸者屋にもらわれてくる。いわゆる仕込みっ子となる。そのときに親と芸者屋のあいだに受け渡しされる金が、女の子の一生を縛ることになる。娘が半玉になり、一本の芸者になれば、娘に金をねだりに来たり、むすめの貢ぎで怠け者の父親はじめ一家が喰っているような例は、ごくふつうのことだった。その娘を縛っているのは生みの親の恩、自分を養って一人前にしてくれた芸者屋の主人の恩と義理だった。恩や義理を知らなければ、それは人間とはいえなかった。 京都祇園の舞妓は東京の雛妓(おしゃく=半玉)にあたるが、土地柄古い慣習が遺って、すくなくとも明治時代は独特の情趣をもっていたという。1929(昭和4)年に書かれた「祇園舞妓の今昔」と題する回顧談があり、せいいっぱいに失われた舞妓の面影を賛美している。「髪の結いよう、だらり帯の締め方、縫い上げ付けの振袖、襟つきのあんばい、おこぼ下駄の足音、姿勢の優美、かまととの言葉つき、実に祇甲(祇園甲部)の特徴である。(……)そして彼女らが舞妓としての店出しをするためには、まず六歳から舞踊をはじめ、鳴り物はもとより生花茶の湯を覚え、十一二歳で姉芸者をきめてお座敷の見習い稽古をはじめる。(……)そのころは髪の結い方も今のような半東京式でなく、髱の出し方もふうわり、前髪も細く、顔の作り方も初々しく、高尚で(……)不行儀者は一人もいなかった」。しかしそれが変わってしまったのは、ひとえにいまの学校制度のせいとして歎いている。 必要な舞妓の修業時代は学校就学時代で、たとえば体操の如きも髪は大半はお下げで、履物は靴、その歩行は自然外輪となり、埃まぶれ汗たらたらの状態、屋外から帰れば一種異様の臭気を帯び、言語動作すべてが男女生の区別なく、それが六学年を十三四歳となる故、典型的舞妓を望まんとするは全く無理な注文である。(大丸 弘) |