| テーマ | 着る人とTPO |
|---|---|
| No. | 503 |
| タイトル | 芸者 |
| 解説 | 芸者とは、宴席等によばれ客の相手をして座をとりもち、遊芸を演じるなどして、興を添えることを職業とする女性。別称は芸妓。関西では芸子とよぶ。歌妓という堅いよび名もあり、明治時代の文献には、東京で拍子、またふざけて猫などといっている。大人の芸者を一本といい、まだ一人前でないときは玉代(料金)が半分なので半玉、あるいはおしゃくとよんで、雛妓という字をつかう。京都では一本になることを襟かえといい、それ以前は舞妓とよぶことはだれでも知っている。 芸者の身装はその土地、その時代の、未婚の女性の恰好と別段ちがうことはない。明治後期以後になると、年ごろの娘の結う髪はほぼ島田にきまっていたから、芸者の髪は島田のヴァリエーションだった。お婆さん芸者でも小さく島田に結った。芸者の島田は高島田でなく、なるべく低く、髱(たぼ=後ろ髪)は下がっている。この方が粋にみえるから。明治の小説のなかに、ある料理屋の女中の、「マア、嫌な髪結いさん、こんなにタボを出してさ、芸者衆じゃあるまいし」というセリフがある(「同い年」都新聞 1914/7/23: 3)。 お座敷によばれるときは礼装になるので黒紋付の裾模様を着た。出の衣裳とよぶ。明治時代には一般には曳裾の習慣がすたれ、端折り(はしょり)になった。曳裾は正月や婚礼などの晴装束に、それも古風な家にだけ残った。それが芸者の出の衣裳だけは、曳裾の前褄を左手の指先三本で引きあげて歩いた。これが芸者の左褄。 もちろん芸者がいつでも黒い出の衣裳を着ているわけではない。縞のきもので、お客と一対一のお座敷もあるし、お泊まりもある。吉原の花魁(おいらん)とちがって、芸者は勝手に出歩くことはできるし、お客といっしょにお線香付(つまり有料)で遠出することもある。そんなときはお客の好みで丸髷の、一見素人の奥さん風に装うこともあり、芸者自身がそれをおもしろがったりもしたらしい。 商売と関係ないふだんのかっこうでも――お稽古の往き帰りやお湯に行くとき、そのほかちょっとした用たしで出歩くおりでも、見る人が見れば、芸者はだいたいそれとわかったという。第二次大戦前の時期に、銀座がファッションステージだった理由は、電車やバスに乗って遊びにくる山の手のハイカラなお嬢さんや、金に飽かしたものを身につけている奥様たちのせいばかりではない。近所の日本橋、芳町、新橋あたりの姐さんたちの往き帰りが、丸善やヤマハ楽器へ行くために道を急いでいる人を、思わず振りむかせるようなことがあったのだ。 洋髪や耳隠しのはやる時代になると、横浜根岸の競馬場や、またダンスホールに出入りするために、日本髪ではうっとうしいといって髪を切り、ふだんはモダンな洋髪にしてしまう芸者が多くなった。そのため1930年代(昭和5年~)に入ると、お座敷用の鬘(かつら)の需要が急激に大きくなっている。芸者は洋装でも見ばえのする人が多かった。それは彼女たちの姿勢がよく、その点で、日本女性が洋装するうえで持っていた欠点が少なかったためもあろう。 ただし、花柳界は芸者たちのこうしたモダン志向を喜ばなかった。明治期には外来の楽器をお座敷で演奏する芸者がいたし、洋装の芸者もいたし、外国人の芸者さえいた。けれどもそういうさまざまな新しさは、芸者の制度全体を危うくするような可能性を含んでいると、花柳界は判断した。 東京では1925(大正14)年に、芸者はお座敷では、当時ハイカラ髪とよんでいた束髪を結わないようにと、市内花柳界の検番から注意を発している(「芸妓は九月からハイカラ髪禁止」読売新聞 1925/8/19: 3)。開化の時代に変わっても、しばらくのあいだ芸者の世界に変わりはなかったのだが、大正と年号が変わるあたりから浅草辺を中心に大正芸者という私娼が現れ、それにつづいてカフェの女給が、つづいてダンサーが出現した。彼女たちは料亭のお座敷もなく、豪華な衣裳もなく、三味線の芸もなかったが、確実にそれぞれにお客をつかんでいった。その危機感から、古い体質をもちつづけていた花柳界は、むしろその古さ、彼らが日本的なよさと考えるものを強調し、それを守ることによって、それに護られようとした。 1936(昭和11)年4月に創刊した【スタイル】は、東京の一流芸者を紹介するグラビア頁を毎号掲載している。それは芸者すがたの、戦前最後の頂点を示すものとして貴重だ。一言でいえるのは、芸者たちの和服の着こなしがみごとにきまっていて、きまりすぎている、とさえいえることだ。 幕末から明治期にかけての町芸者が、あんな堅い着方をしていたはずがない。【スタイル】の芸者の多くは、三越の専属カメラマンだった名越辰雄の注文にもよるのだろうが、整いすぎて、舞台衣裳のようになっている。 この時代にはまだ正月というと、自分の毛で桃割れや結綿(ゆいわた)、あるいは島田を結う娘さんがわずかながらいた。もっとわずかだが、思いきって久しぶりに丸髷を結ってみる五十過ぎの女性もいた。この時代の人たちの日本髪に共通した特色は――髪結の責任でもあるが――だいたいにおいて全体が大きかった。それとおなじことが、芸者の鬘の日本髪にもいえたようだ。 とりわけ戦後になるとそれがひどくなった。お座敷のときだけガマンしてそっと載せておく鬘は、非生活的で、超流行的だ。座敷の客たちはしずしずと入ってくる温泉芸者の、軍艦のような島田髷をみて、一瞬からだを硬くしたろう。 (大丸 弘) |