| テーマ | 着る人とTPO |
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| No. | 514 |
| タイトル | 職場の制服 |
| 解説 | 制服にはいろいろな機能なり目的なりがあり、その軽重は職種ごとにちがっている。もっとも単純には、制服がその業務なり身分なりをだれにもはっきりわからせ、かつ、その業務にとって、機能的に適切なものでなければならないことだ。 ある制服はこの前半分、認知性、ということがほとんどすべてであり、そうなるとバッジ(徽章)でじゅうぶん役に立つ。鉄道やバスの乗務員には最初から制服があったが、タクシー運転手にはそういうものがなかった。戦前のタクシーは個人経営のものがほとんどで、タクシー免許の有無などお客にはわからない。かといって会社に所属もしていないぜんぶの運転手に制服を着せるわけにもいかない。そこで1915(大正4)年、警視庁は免許ナンバーを記入した徽章を、運転手の胸につけさせることとした(→年表〈事件〉1915年10月 「運転免許所有者に徽章」時事新報 1915/10/15: 7)。 わが国で背広服の普及をおしすすめたのがサラリーマンだったから、背広はホワイトカラーの制服、という言いかたもある。しかしこの場合のサラリーマンという身分、ではあいまいすぎ、所属する企業なり、職種へのアイデンティティ、という点では役に立たない。そのため彼らのあるものは襟に自社のバッジをつけている。バッジは学生がよく用いるが、ある時代、袴姿の女学生もきものの襟元に小さなバッジをつけていた。女学校ではそれが校則である場合もあった。 業務にとって適切な服装、に大きな比重のかかったものに、各種の現場作業衣がある。わが国では1883(明治16)年の、三菱会社の雇人の常服は身分にかかわらず河内縞のきものに秩父縞の羽織、という規定が早い例として知られている(→年表〈事件〉1883年1月 「三菱会社の雇人の常服」大阪朝日新聞 1883/1/9: 8)。実験や手術のための白衣などには認知性も求められるだろうが、板前さんや鳶職などは仕事がしやすければそれでよい。 服装の機能分化――TPOに応じた――が乏しかった第二次大戦前は、職種による服装の区別といってもおおまかなものだった。ただそのなかでいくぶん不思議なのは、明治末に事務系の仕事に従事する人のあいだに、一時的ではあったようだがハーフコート風の事務服なるものが用いられたらしいことだ。[読売新聞]はその代理部まで設けて宣伝に務め、「事務服の流行 いまや天下に普し」と書いている。おなじ時期に「執務カバー」という実用新案が生まれ、カバーとはいっても一種の上っ張りだから、事務服とそれほどかわらない。想像するに、この種の事務服は1920、30年代(大正末~昭和戦前期)に流行した女性の上っ張りコートとちがって、デスクワーク従事者の、インク等からの袖口の保護が大きな目的ではなかったろうか。デスクワークをする人のこうした事務服は、もちろんきめられた制服ではなかったろう。 オフィスの事務職はよいとして、電話交換手や紡績、機織女工など現場作業従事者にも、長いあいだ制服はなかったし、ましてその支給はなかった。交換嬢の有名な海老茶の袴、監督の紫の袴も、「きまり」にすぎなかった。1918(大正7)年に、東京の中央電話局が交換嬢の袴の色による身分を撤廃し、袴は持ちあわせのもの何でもよい、ということにした。局ではさらに袴に代わるものがないかと検討する一方で、衣服の官費支給を本省に希望したが、その4千人の交換手の制服およそ4万円が、さしあたり今年はむずかしいとの回答だったという(→年表〈事件〉1919年8月 内藤中央電話局長談「電話交換手の袴撤廃の模索」時事新報 1919/8/11: 6)。 制服、あるいはユニフォームといわれるものの強制力や、強制のしかたにも差があり、政府機関や大企業の場合、遵守義務が明文化されているのがふつうで、その場合は官給、あるいは会社から支給のかたちがふつう。ただし例外はあり、ある地位以上の官吏の服装は自己負担だったから、「現時の服制は多分の費用を要するため薄給の警部はよほど困難なる折から(……)その筋においては更に簡易なる服制に改正せんとて(……)」、警察官の服制改正の議が起こったこともある(→年表〈事件〉1893年3月 「警部服制改正の議起こる」東京朝日新聞 1893/3/9: 1)。警察官の制服はその後、官給でなく貸与、というかたちになり、どんなボロボロになっても構わないから、最後は返納しなければならない。 制服のうちでも大衆にいちばんよく知られているのは、いわゆる現業に属する官公吏の制服だ。軍服、警察官の制服もそれに入る。郵便配達員、鉄道職員の制服はだれにも親しいが、裁判官、判事検事、弁護士の法廷服などは、じっさいに見る機会のある人は少ないだろう。この種の職服は職場以外で着用することがないため、貸与のかたちがふつうだが、軍服は除隊のさい1着支給される。そのためか在郷軍人の中には、町内会の集まりや孫の学芸会にも軍服を着てくる人があった。 官公吏の制服は、もともとおおやけの権威を示そうとする意図もあったのだろう。1919(大正8)年6月の改正までは、鉄道職員でさえ金モールの肩章を飾り、帯剣までしていた(→年表〈事件〉1919年4月 「鉄道院官吏の帯剣肩章廃止へ」東京朝日新聞 1919/4/30: 5)。 その点では法廷服はもっとも典型的だ。権威なるものの、裏返しの滑稽さを表現したのが、黒澤明の映画《野良犬》のなかに登場する老弁護士で、ひとり聖徳太子のような時代錯誤の法服を着て法廷にあらわれ、とまどうさまを、志村喬がたくみに演じていた。東京美術学校が、教官に奈良朝風の制服を制定したり(→年表〈事件〉1889年5月 「美術学校の制服」【風俗画報】1889/5/10)、また学習院が1920年代(大正末~昭和初め)、教授に学校の内外を問わずきまった制服を身につけさせたのはこの種の権威主義によるのだろう。 機能や標識性もさることながら、ある集団を統制しようとする意図から、服装や髪型を一定のものにしようとする場合も多い。それは多くの高等女学校経営者が抱いていた気持ちだった。学生生徒にとどまらず、教員にも、教員にふさわしい服を着せろ、という声は間歇的に存在していた。ただし、1905(明治38)年5月、広島県で、女教員の服装を「学校内にありては筒袖及び袴を着用すべし」といった訓令で縛った例があるが、これはもちろん仕事上の機能面を考慮してのことだ。 統制下で物不足が深刻になっていた1942(昭和17)年、愛国婦人会と国防婦人会が合流して大日本婦人会を発足させ、新しい会服を制定した(→年表〈事件〉1942年5月 「仕立は簡単 日婦の会服」大阪毎日新聞 1942/5/20: 3)。ただしこういう時局だから、なるべく古着を家庭で更生するようにという但し書きつきで。ところが末端の各町会にゆくと、新調を勧誘したり、はなはだしくは、新調しなければ会員でないとまで強請するケースが続出した。上からの指示には概して従順で、また人とおなじでないと不安な、女性の特性が裏目に出たともいえよう。 (大丸 弘) |