近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 510
タイトル 明治の学生
解説

学生ということばは古くからあったが、明治時代には学校に通って学問をしている若者を指して、一般には書生といっていた。明治の後半頃から、書生というのは、学校に通いながら他家に寄宿して、玄関番や力仕事、用心棒をかねた雑用をする若者のことをいうようになる。この時代には苦学生ということばがあって、書生さんは大体苦学生だった。

尾崎紅葉の家の玄関脇の三畳に、若き日の泉鏡花が置いてもらっていた。鏡花はべつに学校へは行っていなかったけれど、やはり人は書生といっていたろう。この場合の鏡花は内弟子の身分。第二次大戦のころまで、書生さんというと真面目で、頼りになる人、という語感と、夏目漱石の猫の冒頭にあるように、猫を煮て喰ってしまうような、獰猛な種族、というイメージもあった。

「学士さんなら嫁にやろか」といわれたのはおそらく明治前半期のこと。学士、つまり唯一の大学だった東京帝国大学在学生は、1891(明治24)年12月の調査では1,304人しかいなかった。入学生は599人。卒業生は420人(『日本帝国統計年鑑 明治24年』1891)。1920(大正9)年の〈大学令〉公布まで、正式には大学は官立の帝国大学だけ。また官立大学も、早くから全国を7つの大学区に分けてはいたものの、東京帝国大学につづく2番目の京都帝国大学が正式に創立したのは、1897(明治30)年だった。ただし、1920年以前にも、準大学とでも言ってよいたくさんの専門学校が存在して、各方面に有為の資格をもった人材を供給していた。文部省学事報告の1896(明治29)年末の「全国学校及教員生徒数」によると、大学は1校だが、高等学校、高等師範学校、専門及技芸学校は合計して246校、学生数は男子だけで34,096名となっている。その3万余人は、まわりの人からみればみんな同じ学生さんになる。以下に、1900(明治33)年前後の東京における2、3の高等教育校学生の、夏の制服のイメージを追ってみよう。

第一高等学校 帽子は麦藁海老茶のリボン、徽章は金色槲(かしわ)の葉、服は霜降セル立襟の背広
慶應義塾大学 帽子はケンブリッジ形、徽章は交差せる金色のペン、服は金燻しの釦付、霜降りセルの立襟背広
高等師範学校 帽子は麦藁薄鼠のリボン、徽章は金色の菊花、服は霜降りセルの立襟の背広
(【流行】(流行社) 1900/8月)

といったちがいがあった。

そんなにたくさんいる学生さんのなかで、だから大学生、とりわけ官立大学の学生のエリート意識はつよかった。帝国大学の制服制帽がきめられたのは1886(明治19)年11月、学生は登校時以外でも制服制帽を着用するよう指示された。当時の学生の多くは通学にも和服だったから、学生のこだわりはとくに制帽だったらしい。どんな弊衣破帽であろうと、とにかく帝大の徽章のついた制帽ははなさなかった。1910年代(ほぼ大正時代)に入ると、帝大の制帽よりも、白い一本線の入った第一高等学校の制帽があこがれの的になった。天下の秀才の集まるところとしての一高の声価は、久米正雄の『受験生の手記』などによく描かれている。はるか時代の下がった第二次大戦後に、東大教養学部と名の変わった駒場で、廊下でつぎの授業を待って騒がしくしていた学生たちに向かい、私立大学の学生のような真似をするな、と怒鳴った教授がいたそうだ。誇りは人によってはけっこう長持ちするものらしい。

明治末、20世紀に入りかかるころの、東京の標準的な学生の恰好を、【風俗画報】はつぎのように伝えている。和装のときは、きものは小柄の絣もの。一般に流行なのは薩摩絣。羽織もきものとおなじ。袴は鼠と白の千筋――それほど細かくないもので、瓦斯織の木綿。靴のとき以外は長めにはく。帯は十人が十人黒のメリンスの兵児帯。履物は薩摩下駄。記者は、生徒、とだけ言っているので、中学生なのか高等専門学校生なのかわからない。もっとも中学生も大学生も、この時代は基本的にはそう変わらないはず。

森鴎外は島根県津和野の出身だが、『ヰタ・セクスアリス』のなかで、明治10年代(ほぼ1880年代)の寄宿住まいの学生をつぎのように説明している。「生徒は十六七ぐらいなのがごく若いので、多くは二十代である。服装はほとんど皆小倉の袴に紺足袋である。袖は肩の辺までたくし上げていないと、惰弱だといわれる」。

鴎外の書いている、惰弱だといわれたくないという気持は、一般に時代とところを問わず若者に共通する見栄だが、とりわけ明治時代の学生には特徴的だ。その背景には、東京で苦学している学生には地方出身の人が多く、貧しい没落士族の子弟も少なくなかった。勉学のため上京する、というからには皆それなりに故郷ではエリートであり、そこそこの自信も持っているはず。それが井のなかの蛙から東京へ出てみれば、さまざまなかたちでの挫折を体験することになる。鴎外も前の文章につづけて、自分が「醜男子」たることを知ってあきらめ、以後この自覚がつねに意識の底にあったと書いている。あやうく年長者のお稚児さんにされかかった経験のある鴎外とちがい、そのもっとも極端な反対の例は菊池寛だろう。

挫折はなにも自分の容貌だけのはなしではない。貧しい、無力な学生である自分と、奢る世間や、既成権力との大きなへだたり、つまり「嗚呼玉杯に花うけて……」という嘯(うそぶ)きがまさにそれ。もちろんさまざまな挫折が、人を奮い立たせて、成功の道に駆り立てる例は多い。しかしそのまえに、世間の価値観を嘲笑して、あえてそれに楯突くという青春の一季節のあることは、かならずしも無駄ではないかもしれない。

身なりに無頓着なこと、むしろしゃれ者や流行などはバカにするか、毛嫌いすること、周囲を無視し、ひとを脅かすような自己表現をしながら、それでいて結構人目を気にしていること――もちろんあらわれ方は人さまざまだが、それが坪内逍遙の『当世書生気質』(1886)の時代からずっとあとも、そう簡単には消えなかった学生/書生のイメージだった。

学生服の出発を考えるうえで忘れられないのは、軍人、警察官等の制服との関係だ。1880年代(ほぼ明治10年代)、これらの制服がだんだんと固まってゆくのと並行する時期に、帝大の制服が選定されている。最初から軍隊式教育を謳っていた高等師範学校は特別としても、わが国の学生服と教育への、軍装と軍国思想の関わりかたは、なお考えてよいテーマになる。

(大丸 弘)