| テーマ | 着る人とTPO |
|---|---|
| No. | 520 |
| タイトル | 職人/人夫 |
| 解説 | 江戸時代に、武士や町人と区別されて職人といわれたのは、もっぱら物づくりを仕事としていた人たちだ。物づくりに新しい、たいていは外国からの機械が導入され、ものを作っているのは機械で、人間は機械の世話をするような状態になると、たしかにひとつひとつの製品と仕事をする人との関係はうすれる。ただし、製品と仕事をする人との関係が本当に薄れるのは、分業というシステムが入るためだろう。 職人と職工を区別するのに、職人はひとつのものを作るのに、自分で全体の責任をもった、という考えもある。しかし徒弟制度で支えられていた江戸時代の職人仕事にも、分業システムはあった。自分でデザインから仕上げまで手がけられるのは、比較的小さいものや、工程が単純なもののはなしだ。京都の染織品のように工程がはっきりと分業化しているものは、いまはじまったわけではない。大工でも木挽きだけの者、板削りだけやっている者もいた。橋や寺院などの大きな建造物は、もちろん何人もの棟梁の総掛かりの仕事だろうし、大きい調理場で働く料理人も、包丁をにぎる板前だけで料理はできず、焼き方、煮方、などの分業になっていた。 開化以後も当分のあいだは、職人の恰好といえば昔のままの、紺の股引、腹掛、ときまっていた。股引には膝あたりまでの半股引もあり、季節や仕事で使いわけていた。股引に腹掛け、上に半天をはおる恰好は職人にかぎらず、土方、人足と呼ばれた筋肉労働者や普請現場などの雑用労働者、鳶の連中、人力車夫、多くの農民もおなじだった。外出のときはかならず手拭いを懐に入れている。手拭いは汗も拭けば、にわか雨のときには頬被りにもなる。高座の噺家は手拭いと扇子で器用になんでも表現するが、それほどでなくても、腰の提煙草入れをとりだして、煙草を飲むわけにもいかない相手と向きあう場合など、揃えた膝の上で手拭いをつかんでいるだけで、手もちぶさたが防げる。親方、棟梁となると、出入り先への訪問等には、股引腹掛けの上へ羽織を着て、鞄を提げたりする。 おなじ「半天着」とはいっても、もっぱら物づくりをしている職人は、荒っぽい力仕事で稼いでいる人足を、自分たちの仲間とは考えていなかったろう。はっきりしたちがいは、職人たちは年季の入った技能をもっていたが、人足にあるのは二本の腕だけだ。 開化の時代になってからというもの、電信や鉄道の敷設、大規模な道路工事や橋梁の鉄橋への掛替え、石や煉瓦を積む西洋式建築といった建設関係、外国船相手の荷役作業、あるいは鉱山の掘削などに、たくさんの新しい労働力を必要とした。 鉄道の敷設や保守管理は鉄道工夫、荷役作業は仲仕、鉱山の採掘は鉱夫と、それぞれの仕事にはそれなりに必要な知識と熟練の度合いはあったが、概していえば単純な力仕事だった。彼らのほとんどは工事を請け負った親方の設けた飯場に寝起きして、そこの飯を食う。もとより家族などもってはいず、流れ者が多く、なにかうしろ暗いとことのありそうな人間もいる。前の日には腹掛に股引という恰好だったはずが、つぎの日には六尺ふんどし一本になっている。夜のあいだの盆茣蓙(ぼんござ)で、その日の稼ぎから身ぐるみまで取られてしまったのだ。実際、港湾での夏のあいだの荷役作業では、ふんどしか半股引ひとつで、輸入穀物入りの大きな袋を担ぐのがふつうだった。ふんどし一本でも、彼らは仲仕前垂と呼ばれる地厚の紺の前掛をかならずしていた。 仲仕前垂は4尺(約120センチ)ほどの長さの厚司の布を横中央で二つ折りし、折った内側に細帯を通して腰に巻きつける。荷役のときはその外側に垂れた方を肩にかけて、荷の当たりを和らげる。仲仕は単純労働にはちがいないが、本船から艀(はしけ)へ、艀から岸壁の倉庫へ、無造作に渡された30センチ幅くらいのぐらぐらする渡り板の上を、人間ひとり分の重さほどもある袋をかついで渡るのは、危険で、事故も多かった。そのためもあってか仲仕、あるいは沖仲仕というと、開港場の横浜でも気の荒いので知られていて、仕事を終わった沖仲仕たちが、前垂れを片っぽうの肩にひっかけて、海岸通りあたりをつらなって来るのにであうと、たいていの男は道を空けた。 股引腹掛けが労働衣を代表してはいたが、膝のあたりの窮屈な細身の股引は、とくに高所で小まわりのきく動きを要求される鳶職には、ほんらい向いていなかったのだ。鳶職をふくめて建設・土木の労働者たちは、太平洋戦争までには膝のあたりの極端にゆるい、作業用ニッカーズ(knickers)への転換をほぼ終えていた。このニッカーズを現場ではふつうタンクズボンと呼んでいる。この形のズボンは足さばきがよいだけでなく、高い足場で万一足を滑らせても、出ている釘などに引っかかりやすいため、命が助かるという利点もあると信じられている。 ニッカーズ自体の普及は1910(明治43)年以後のことだ。戦前、ニッカーズはもっぱらゴルフズボンとして愛用された。日本人のゴルフクラブである駒沢の東京ゴルフクラブの発足が1913(大正2)年、関東大震災(1923)頃にはかなりの普及をみていた。有閑階級の遊びであるゴルフと、建設労働者の作業衣を結びつけるのはむずかしいようだが、1910年代後半(大正前半期)の成金景気のなかに、たくさんの、ふつう請負師と呼ばれた建設業者の含まれていたことは事実だろう。世間は彼らの恰好を、あまりいい意味ではなく土方仕立てと呼んだ。「うちの親方洋服パッチ、胸に金鎖がピンと光る」という俗謡があったそうだが、上が半天、下がズボンというようなキッチュを敢えてしていた請負師連中の現場スタイルが、やがて末端の作業員にまで及んだ、という推測が妥当なところだろう。 股引にせよ腹掛、半天にせよ、丈夫専一にと考えられたそれまでの生地はみな硬くて肌になじみにくい。慣れていればそれもよいのだろうが、とりわけ若い労務者は、やわらかい素材のタンクズボンの上は、メリヤスのシャツにジャージーのセーター、それでひとシーズンも着られればじゅうぶんだ。半天法被はお祭りのとき山車の上で着るもの、という通念が、第二次大戦後にはほぼ定着していた。 (大丸 弘) |