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解説
2. 美容
201 化粧
化粧の近代80年は、新しい化粧料の発展と、その利用の内容をたどることによって、ほぼ理解されるのは当然だが、あわせて、化粧する目的をめぐっての、さまざまなたて前と本音、また誤解や偏見の推移をみることも興味ぶかい。江戸時代の女訓書の、女の身だしなみとしての容粧の教えは、その流れをひく実用書のたぐいのなかでは、明治の末まで大きく変わることはなかった。婦女の化粧とて其の顔色や頭髪を艶(いろ)どり形づくるは、強(あなが)ち男子の眼を悦ばし且つその意(こころ)を迎うる為のみにあらず 是れ婦女の礼式に係りて深き趣意の…
2. 美容
202 和風濃化粧
一時的な流行をべつにすれば、日本の女性はつねに、肌の色の白い美しさを、ほかのなににもましてあこがれてきた。七難隠す、といわれたとおり。それを実現するために用いるのが白粉(おしろい)だから、白粉はいつも化粧料の主役だった。肌の美しさを損なうのは色黒だけではない。とりわけ疱瘡は器量さだめといわれ、大正の初め頃までは、白粉で隠せる程度のうす痘痕(あばた)まで入れれば、町なかでザラに見られた。アザ、傷跡などはべつとしても、そばかすや、多すぎるほくろ、しわ、シミ、不健康な顔色の悪さなどは、どれも美しさを損なう。し…
2. 美容
203 洋風肌色化粧
第二次大戦前に日本を訪れた外国人が、日本女性を見て奇異に感じたことのひとつは、お面のように顔を白く塗っている化粧法だった。この塗り方は、一般には1920年代(大正末~昭和初め)頃までだったが(→年表〈現況〉1924年12月 「春のお化粧」東京日日新聞 1924/12/25: 6)、大戦後でも花嫁さんや、踊りの舞台化粧、花柳界、とくに京都の舞妓さんの化粧法に残っている。舞妓さんもいいが、あの顔だけは気味がわるい、という人は現代ではすくなくない。有鉛白粉(おしろい)の規制は、1900(明治33)年の〈有害性…
2. 美容
204 肌の手入れ/美顔術
日本女性の化粧は、顔、襟もとに白粉(おしろい)を塗ることが中心だったから、肌そのものの手入れには関心が低かった。江戸時代から何種類かの化粧水は売りだされているが、宣伝ほどの効用があったのか、その成分とともによくわからない。明治に入ってのちも、何々水とか何々液とかいう化粧水のたぐいが、つねに新聞広告に見られ、かなりの売れゆきがあったらしい。おもに白粉下につかわれていたものだろう。そのころの肌の手入れで忘れることのできないのは、ひび、あかぎれ、霜焼けの手当だ。日中戦争のはじまっている1939(昭和14)年と…
2. 美容
205 香水
からだや衣服、また身辺に、香りの高い動植物のエッセンスを用いることはどんな文化にもある。その一方で、食物やからだ、環境から出る臭気を消すための工夫もあり、このふたつがまざりあって、そのひと、その家、その街、その文化独特のにおいを生む。基本的な条件としては、壁で囲んだ密閉型の建築構造は、当然のこと、においがこもりやすい。また動物をおもな食料としている食生活のほうが、食べもの自体も、食べるひとにもにおいがあるだろう。その意味では、風通しのよい木造住居のなかで、植物主体の食生活をしてきた日本人は、無臭民族とい…
2. 美容
206 石鹸
日本での石鹸は、開化後まもない1873(明治6)年に、横浜に最初の製造工場が設立されているくらいなので、普及は早かったものとみられる。1898(明治31)年に都新聞社が石鹸と化粧水の人気投票を企てたとき、同社の調べた範囲で、石鹸、化粧水、白粉(おしろい)、歯磨き等の化粧品を製造している業者が東京市内に56軒あった。各業者の商品から一種類だけが紹介されているため、ここではたとえば福原資生堂は衛生歯磨となっていて、じっさい石鹸を製造販売している業者の数はわからないが、50軒近い製造業者とブランド名があったの…
2. 美容
207 眼の周り
江戸時代とくらべて、女性の化粧の近代とはなにかといえば、その答はあきらかだ。それは白塗り化粧から、眼と口を強調する化粧への転換だ。眼の機能はものを見ることで、口の機能は飲食のほか、ものを言うことだ。観察し、発言する道具の強調が近代化粧の特色だとすれば、近代女性の生きかたを考えるうえで、それはとても示唆的だ。化粧の近代の最初のできごとは、眉剃り、お歯黒の停止だった。眉剃りは歴史的には作り眉の一種だ。江戸時代、作り眉をしていたのは堂上人と芝居の役者だった。早くも1868(明治元)年に、男子の鉄漿(かね=お歯…
2. 美容
208 歯/唇
開化当時、遠くの国から訪れた人々に、チャーミングといわれた日本の女性だが、彼女たちの口元はかなり汚く見えたらしい。そのひとつが涅歯(でっし=お歯黒)の習慣だ。お歯黒は眉剃りとともに結婚した女性のしるしとされた。眉を剃り歯を染めた人妻は、おとなしやかに、また慎ましやかにみえた。この習慣はいろいろなかたちで批判の対象になったが、法的に禁じられたことはなかったから、急速に衰えはしたものの、とかく古風なものを正当なものと信じている老婦人や、日々の習慣になんの疑問も反省ももたない下層社会では、かなり後まで見ること…
2. 美容
209 頭髪
髪の毛をどんな長さに剪るか、どんなかたちにまとめるか、というスタイリングの問題以前に、毛それ自体についても、考えるべきことは多い。日本人の髪は直毛で、いくぶんかカールしている人はかなりいるが、縮毛の人はごくまれだ。色は純粋に近い黒から、ややチョコレート色がかった黒まである。毛それ自体の問題というと、髪にウエーブをつけたり、縮らせたりすることがひとつ、色を染めることがひとつ、汚れをとる、つまり洗髪に関することがひとつ、の3点だろう。髪にウエーブをつけることは、1920年代(大正後半)以前の日本では考えられ…
2. 美容
210 かつら/かもじ
近代の結髪業に通用したことばとしては、鬘(かつら)とは、他人の毛を植えたかぶりものをいい、一方、髢(かもじ)というのは、髪の「か」の字を使った女房ことばで、本来は髪そのものを指すのだが、この時代では入れ毛のことになっている。しかしこの時代、カツラに、仮髪という字を当てている人もあり、業界以外での使われかたはいろいろだったようだ。英語でのウィッグ(wig)、ファルス・ヘア(false hair)に、入れ毛、かぶりものの区別はないらしい。カツラは、もともとは舞台の扮装用に使う小道具の一種だった。役がきまると…
2. 美容
211 化粧品
日本近代の化粧品は、白粉(おしろい)の鉛害の問題で明けた。何人かの歌舞伎役者がその犠牲になったと噂された。ようやく1900(明治33)年になって、〈有害着色料取締規則〉が公布され、その第1条、第4条において、水銀、鉛など着色料の製造、使用を禁じている。ところが附則第11条には、「鉛白ハ当分ノ内第4条ノ規定ニ拘ハラズ化粧品トシテ使用スルコトヲ得」となっていて、有鉛白粉は禁止の除外となった。この措置への批判に対して当局は、有鉛白粉は一般女性の常識的な使い方であれば、それほどの害はなく、化粧品の現状では、つき…
2. 美容
212 美容整形
開化後間もない1869(明治2)年4月の[六号新聞]に、つぎのような記事が掲載された。信州の人が強盗のために鼻柱を切り落とされて治療の方法がなかったが、2月中旬東京の大病院にてイギリス人医師ウリース・シードルの手術を受け、もとの顔に戻った。その方法は、左右の眼の下の皮膚と、額の皮膚とを切り取り、三方より鼻を補ったとのこと、実にめずらしき手練というべきである。ウリースは手術に当たってはクロロフォルムという痺れ薬をかがせ前後を忘れさせるという。おそらくわが国でおこなわれた形成外科手術の、もっとも早い事例のひ…
2. 美容
213 手とあし
肩から指先全体を手といい、肩から手首までを腕、肩から肘までを二の腕という。二の腕を医学用語では上膊(じょうはく)、あるいは上膊部といい、軍隊や、体育ではそう呼んでいた。股関節から全体を足といい、膝から上を腿、あるいは太ももといい、医学用語では大腿部。股という字は、ももにも、またにも使っていてはなはだ不都合だ。漢字が使いたいなら、または股関節の股、ももは大腿部の腿の字を使うべきだ。膝から足首までをすねという。はぎという言い方もあるが、古い言い方で、いまはふくらはぎ以外はあまり使わない。すねの前方、骨のある…
2. 美容
214 床屋/理髪店
開化の時代になっても女の髪型は変わらなかったが、男のほうは斬髪になったため、床屋の仕事の内容がすっかり変わった。1898(明治31)年8月7日、14日の2回にわたって[時事新報]は、「理髪の沿革」という読物を掲載した。それによると新しい理髪の技術は、横浜はじめ開港した5つの港の髪結が、異国船の来るごとにつてを求めて、一挺の剃刀をたずさえてその船に出入りし、乗組の西洋人の顔を剃って存外の儲けをした。その連中がやがて、乗船していた理髪師等から、西洋風の鋏の使いようを習い覚えたもの、としている。美容家の芝山み…
2. 美容
215 髪結/美容院
髪結ときくと、歌舞伎好きの人だったら《髪結新三(しんざ)》を思い浮かべるかもしれない。江戸時代の髪結業者には男も女もいたが、男で、お客の家へ出かけていって仕事をする、出髪結(でがみゆい)のかたちが多かった。そのころはたいていの人は髪は自分で結っていたから、商売人に髪を結わせるような女性は、商人でもかなりの身代の家にかぎり、そういう家の女はめったなことでは家から出なかったのだ。明治になると、女性の髪を結う男性の髪結というのはいなくなって、髪結という商売は女性に独占された。女髪結はやはり客の家を訪れて仕事を…
2. 美容
216 女性断髪
女性の断髪は1920年代後半(昭和初め)に、いわゆるモダンガールとからんで話題になった。ただし女性が髪を短くすることを広い視野でとらえるなら、それは今さらのことではない。仏教では戒を受けて仏門に入るとき、その印のひとつとして剃髪する。しかし釈迦の時代のインドにそういう習慣はなかったらしいので、後世にさまざまな実際的理由や、理屈から生まれた習慣だろう。古い時代のわが国では、男女とも髪はのびるままにし、男性はかんたんに結んでいた。江戸時代中期以後、女性も髪を結びあげるようになり、その結び様が技巧的になって、…
2. 美容
217 丁髷から散髪へ
政権が変わることによって、日常の装いが一変するという例は近代の歴史では少ない。中国における辛亥革命後の弁髪の廃止と、明治維新後の丁髷(ちょんまげ)の廃止とは、その少ない事例のなかに入り、対比させて考えるためのよい材料になっている。新政府3年目の1871(明治4)年に、散髪、制服、略服、脱刀が勝手、という太政官よりの布令が出た。勝手、ということであり、散髪を強制などしてはいないし、丁髷をなくそうともしていない。新政府は男女の髪に関して、こののち特に口を出すことはなかった。[時事新報]によれば、東京市内で1…
2. 美容
218 男性髪型/ひげ
ちょんまげが散髪に代わって以後の男性の髪型は、現代までとくにめだった変化はない。男性のヘアスタイルがマスコミにとりあげられることはあり、リーゼントスタイルとか、慎太郎刈りとか、マッシュルームカットとかいうことばを耳にしたり、写真で見たりすることはあっても、それは芸能人と、それをアイドル視する連中の世界のことで、大部分のおとなは自分のこととは思わなかった。男性の髪型の流行は理髪業と、一部の芸能人のなかにはあったが、男の世界にはほとんど存在しなかった、といってよい。男はふつう自分の髪型というものをもっている…
2. 美容
219 日本髪の時代
1880年代後半(ほぼ明治10年代末)に束髪が結われはじめてから、それ以外の女性の髪を日本髪(にほんがみ)というようになる。だからといって、束髪を西洋髪とよんだわけではない。ヨウガミという言いかたも一部の人はしたらしいが、しかし束髪の種類のなかには、日本の従来の髪型もふくまれているので、これは正しくない。束髪は手軽な束ね髪、であるのに対して、日本髪は結び髪なのであり、結んだ髷(まげ)をもっていることが特色。日本髪の種類とは、その髷の結び様の種類と思ってよい。もちろん束ねると結ぶはことばの綾のようなもので…
2. 美容
220 消える日本髪
1901(明治34)年に刊行された『婦女かがみ―家庭教育』(文廼舎)は髪型の名を50あまり列挙した上で、「右の内今一般に行わるるものは左の如し」として、つぎの17種類を挙げている。島田、丸髷、銀杏返し、勝山、天神、三ツ輪、唐人髷、桃割れ、兵庫髷、おばこ、御盥(おたらい)、達磨返し、割唐子、ふくら雀、稚児髷、櫛巻、束髪。このなかで天神髷は「粋なる社会の婦人間に流行すれど、下品なるを免れざるもの」とされ、御盥は「意気なる婦人間に行われたる髷形にて、芸妓の廃業者、或いは待合の女将などに用いらる、その様頗る軽薄…