| テーマ | 美容 |
|---|---|
| No. | 211 |
| タイトル | 化粧品 |
| 解説 | 日本近代の化粧品は、白粉(おしろい)の鉛害の問題で明けた。何人かの歌舞伎役者がその犠牲になったと噂された。ようやく1900(明治33)年になって、〈有害着色料取締規則〉が公布され、その第1条、第4条において、水銀、鉛など着色料の製造、使用を禁じている。 ところが附則第11条には、「鉛白ハ当分ノ内第4条ノ規定ニ拘ハラズ化粧品トシテ使用スルコトヲ得」となっていて、有鉛白粉は禁止の除外となった。この措置への批判に対して当局は、有鉛白粉は一般女性の常識的な使い方であれば、それほどの害はなく、化粧品の現状では、つきのよい有鉛白粉の全面的禁止は無理である、と説明した。 1903(明治36)年時点での警視庁のテストでは、東京府下で製造販売している白粉86種中、多少の鉛分を含むものが66種、また20種はまったく鉛分を含んでいなかったという(→年表〈現況〉1903年8月 「有害白粉と無害白粉」読売新聞 1903/8/30: 3)。 白粉の害がそれほど話題になったのは、その時代には、顔ばかりでなく、胸元から首筋、ときとしては肩口から貝殻骨のあたりまで、大肌ぬぎになって白粉を塗るひともめずらしくなかったし、白壁のように厚塗りの女性が多かったのもひとつの理由だろう。女学生風の着つけや束髪のせいで、とくに若い女性が首筋の化粧にあまり気をつかわなくなると、「真っ黒な首筋」と小うるさく言いたてる男があったし、化粧っけのない娘を見ると、フン新しい女かと、白い眼で見られることもあった。 1900年代から1910年代にかけて、つまり明治末から大正にかけて、従来の和風濃い化粧と洋風薄化粧の対比がさかんにとり沙汰された。白ければよい、という考えかたに対して、生きた肌の色を重んじる方向だ。 1916(大正5)年に、〈売薬部外品営業取締規則〉が公布された。化粧品もこの部外品中にふくまれ、製造販売には届出が必要になる。上に挙げた1903年の警視庁によるテストでも、東京府内だけでも86種類の白粉が製造販売されているのにはおどろく。しかし実態は、それとは比較にならないくらい大量の、なかにはかなり怪しげなものまでをも含めて自家製の化粧品が存在し、ときには狭い範囲で流通していたかもしれない。 というのも、1880、1890年代の家庭向け実用書のなかには、歯痛、下痢、秘結(便秘)、頭痛など、さまざまな症状のための応急薬の作りかたとならんで、家庭での化粧料の作り方のくわしい手引きが、大きく頁を埋めているものが少なくない。この時代は髪洗いには普通、うどん粉と布海苔(ふのり)を使い、この方法は第二次大戦以前には完全には捨てられていなかったし、からだを洗うには石鹸でなく糠袋を、上等な洗顔料としては鶯の糞を常用している女性もまだ多かった。1910年刊の『国民百科全書』(尚文館)でさえ、「妄りに石鹸を使用するものよりは、寧ろ米糠の方安全にして有効なり」と言っている。1914(大正3)年1月に、【婦人世界】が35名の名流婦人に対しておこなった、洗顔に何を用いるかという質問への複数の回答では、石鹸15人、洗い粉14人、糠12人、その他が3人、という結果になっている。カタカナ名前の新しい化粧料がたくさん現れはしたが、多くの女性たちは化粧品と化粧の方法について、まだ手さぐりの状態だった。 化粧水という名の化粧料は古くからある。明治時代も1878(明治11)年に発売してヒット商品となった平尾賛平商店の「小町水」をはじめとして、何々水という名称の商品は数多い。その多くはアストリンゼント効果をもつものだったかもしれない。それに対して動物の脂肪を摂らなかった日本人は、肌に脂のようにベトつくものを塗る習慣もなかった。 1908(明治41)年の[東京日日新聞]は、前年の明治40年は日本化粧史において特筆すべき年であり、それは従来の洗粉に代わって、マッサージクリームが使われはじめたことによる、と書いている(→年表〈現況〉1908年6月 「東京女風俗」東京日日新聞 1908/6/5: 6)。この記事では、これは山の手の女学生からはじまった、とあるが、日露戦争後のこの時期は、銀座の東京理容館の美顔術が評判になりはじめたときだ。美顔術とは要するに、クリームを塗布してのフェイシャル・マッサージ法だから、クリームの普及が美顔術をきっかけにしたことはまちがいない。 20年あまりを経た1931(昭和6)年、東京小間物化粧品卸商同業組合の発表による、東京市内における前年の化粧品販売額では、舶来品が多く使われる香水と石鹸以外の化粧品は、すべて売れゆきが伸びているなかでも、クリームの伸びは目立つ。その理由は、「丁度一昔前、顔を洗うのに石鹸を使うのは贅沢だと思われていたのが、今はそんな考えを持つ人がなくなったように、クリームの使用も次第に一般の常識になって来たためでしょう」と分析している(→年表〈現況〉1931年10月 「化粧品の消費状況」報知新聞 1931/10/8: 9)。 クリームと一口にいっても種類はいろいろあるが、この時代需要の多かったのは、化粧落とし、洗顔、皮膚の保護など、多用途に使われたコールドクリームだった。わずかだったが1930年代(昭和戦前期)には、脱毛クリームや、男性の髭剃クリームも使われはじめている。 目的として新しいものではないが、使用法の大きく変わったのが口紅だろう。江戸時代の女性は、口をできるだけ小さくみせようとしたため、いくぶん異様な唇の化粧になっている(→参考ノート No.208〈歯/唇〉)。 明治時代に入ってもその習慣はつづき、口紅はおもに儀礼的に使われるもの、と考えられていたようだ(→年表〈現況〉1918年1月 「小間物店主の談話」都新聞 1918/1/31: 3)。その儀礼にさえ口紅を塗らない女性がいたようで、やかましくいえば口紅にかぎらず、紅を使わない化粧は片化粧といって、よくないこととされた。 口紅を多くの女性が用いるようになった背景には、たしかに棒口紅の普及があるにちがいない。舶来品の使用に次いで、国産のリップスティックが1910年代末(ほぼ大正前半)に発売され、その手軽さから利用が広がりはじめたのは、職業女性をはじめ、女性の外出の機会が増える一方、外国映画の輸入が多くなっていたためだろう。白黒映画であっても、白人女優の眉毛と眼と、そして唇の強調は、日本人の眼には異常と感じられるほど、つよく焼きついたようだ。(→年表〈現況〉1925年4月 「生き生きした唇の美」時事新報 1925/4/30: 5;「唇と目の強調」【婦人画報】1925/3)。 (大丸 弘) |