近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 美容
No. 209
タイトル 頭髪
解説

髪の毛をどんな長さに剪るか、どんなかたちにまとめるか、というスタイリングの問題以前に、毛それ自体についても、考えるべきことは多い。

日本人の髪は直毛で、いくぶんかカールしている人はかなりいるが、縮毛の人はごくまれだ。色は純粋に近い黒から、ややチョコレート色がかった黒まである。毛それ自体の問題というと、髪にウエーブをつけたり、縮らせたりすることがひとつ、色を染めることがひとつ、汚れをとる、つまり洗髪に関することがひとつ、の3点だろう。

髪にウエーブをつけることは、1920年代(大正後半)以前の日本では考えられないことだった。洋髪、つまり髪に熱アイロンでウエーブをつける技術は、1922(大正11)年頃から入ってくるが、その普及は早かった。もちろん反対や抵抗はあったが。髪にウエーブをつけることも、洋服とおなじように、女の子からはじまっているらしい(→年表〈現況〉1922年10月 「ハイカラなおかっぱ」都新聞 1922/10/19: 9)。

まっすぐでない髪の毛は癖っ毛といって、赤毛とおなじように嫌われたものだ。鹿鳴館の華だった大山巌夫人捨松の縮れ毛は有名。1920年代(大正後半)といえば、もうアメリカ映画が日本人の感性のなかに入りこんでいた。画面は白黒だったが、白っぽくてふわふわした、欧米女性の髪の美しさも、それなりに受けいれていたものと考えられる。美容界のリーダー格の人物のひとりだった山本久栄は、1927(昭和2)年につぎのように言っている。

ふさふさと水の滴る黒髪と云うのが、日本婦人の誇りでありましたが、近頃では断髪や洋髪が全盛になりましたので、赤毛や癖毛も恥ずかしくないようになりました。
(山本久栄「結髪の巻」『美容全集』1927: 150)

1925(大正14)年にすでに、金髪らしく染めている人もときどき見かける、という新聞記事もあるが、第二次大戦以前には、髪の毛を黒以外の色に染める、あるいは脱色するのは、日常的にはごくまれだったと考えられる。ただし、腕や足のむだ毛を目立たなくするための脱色は、1930年代(昭和戦前期)にはかなりなされていたようだ。

カラー映画どころか、新聞や雑誌の写真のほとんどが白黒だった時代には、欧米人の赤毛、とりわけ金髪などは、実際に見た経験のある日本人はほとんどいなかった。そのため戦時中に街で、赤っぽい毛の、すこし色白の日本女性が、「どうしてお国に帰らないんですか」と尋ねられたりしたという。

髪の汚れは、赤土の空っ風の吹く東京ではとりわけひどかった。関西の女性があまり髪を洗わないといわれるのは、いくぶんかはこの風土の条件があるにちがいない。

各戸に水道がひかれていなかった時代は、洗髪は女性にとって大仕事だった。多くて三間くらいの座敷、あとは二畳くらいの台所に、便所と玄関、という庶民の家では、洗髪は銭湯でするしかなかった。そのため銭湯の女湯には、洗髪のための特別の洗い桶が置いてあり、それを使って髪を洗う人は洗髪料をべつに支払った。

洗髪の回数は、1920年代になると、夏には週に2、3回、という勧めがあるまで頻度が増えているが(→年表〈現況〉1925年6月 トタニ美粧院「夏の髪の手入れ」報知新聞 1925/6/6: 8)、明治時代では、多くの女性は夏でもせいぜい月に1、2回という程度だったらしい。

1890年代(ほぼ明治20年代)の銀座の鉄道馬車の情景を想いだして、生方敏郎(1882~)は、「お祭りでもあって混雑すると、婦人の髪から発する臭気がとても堪らなかった(……)油で固めた髪を長く洗わないと見えて、臭い人が多かった」(「明治時代の学生生活」『明治大正見聞史』1926)と言っている。それでも東京人はまだマシのほうだったろう。徳田秋声の1910(明治43)年の作品『足迹』では、葬式のため田舎から出てきた女の髪を結う東京の髪結のすがたを、「髪結は油でごちごちした田舎の人の髪を、気味わるそうにほどいて梳きはじめた」と描いている。

地方に出張営業する機会の多かったある美容師は、いつ洗髪したかを尋ねても、思い出せないくらい以前に洗ったきりの髪が多く、「従っておぐしあげをする時、私たちの苦しさは知る人ぞ知る、なのであります」(石井邦子(道玄坂美容院)【資生堂月報】1925/7月)と言っている。

だれもが日本髪を結っていた時代は、髪油を多用するために、その油のにおいが勝っていたろう。それが油をあまり使うことのない束髪の時代になると、頭皮から出る脂垢と汚れのにおいが主になる。

束髪が臭い理由のひとつは、たいていが商売人の手にかからず、自分で結ってしまうためだ。本職の髪結は、髪を結う前にかならず癖直しをした。弟子のいる場合は癖直しは弟子の仕事で、弟子入りして間のない女の子は、この段階でさんざん鍛えられた。癖直しは手の入らないような熱湯に布を浸し、髪の汚れを頭皮までじゅうぶん拭きとって、梳き櫛を使って念入りに髪を梳くのだ。癖直しとはいうものの、髪についた癖そのものは、熱アイロンでやるほどに取れるものではない。むしろ熱いお湯で髪の汚れを拭きとるのが主目的だった。この快さのため、髪を上げる腕にすこしくらい不満があっても、癖直しが上手で、念入りにしてくれる髪結さんがよろこばれた。

髪を洗うための洗剤としては、古くから、卵、あるいは布海苔(ふのり)とうどん粉、という組み合わせが定着していて、石鹸の質が低かった関東大震災(1923)以前には、ほかのものはまず顧みられなかった。1922(大正11)年9月14日付[東京日日新聞]の「奥様大学」欄に、「頭の地や髪を傷めないようにするには、やはり洗髪専用の石鹸を使わねばなりません。和製ではまだ上等の洗髪石鹸がありません。日本に来ている舶来ものですと(……)」と、銀座のある薬局で売っているアメリカ製の洗髪料を勧めているのが、布海苔とうどん粉からの離陸の早い例。

1930年代(昭和5年~)に入ると、布海苔、うどん粉、卵は、蒸れたり臭気を発したりするおそれがあるとして、シャンプーの利用を勧めるようになる(→年表〈現況〉1931年9月 「初秋の化粧」朝日新聞 1931/9/3: 10)

一方、男子についても、1週間に1度くらいの洗髪が勧められている(「フケが出る男子の頭の手入れ」読売新聞 1925/10/21: 7)。

(大丸 弘)