近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 美容
No. 205
タイトル 香水
解説

からだや衣服、また身辺に、香りの高い動植物のエッセンスを用いることはどんな文化にもある。その一方で、食物やからだ、環境から出る臭気を消すための工夫もあり、このふたつがまざりあって、そのひと、その家、その街、その文化独特のにおいを生む。

基本的な条件としては、壁で囲んだ密閉型の建築構造は、当然のこと、においがこもりやすい。また動物をおもな食料としている食生活のほうが、食べもの自体も、食べるひとにもにおいがあるだろう。その意味では、風通しのよい木造住居のなかで、植物主体の食生活をしてきた日本人は、無臭民族というのに近いかもしれない。農家のなかでそれとわかるにおいは、家畜がいなければ、ふるい木材と、微かな藁のにおいくらいだ。日本のにおいの伝統として、香道をあげるひともある。しかしそんなことに関われたのは、ひとつかみとも言えないわずかの人たちだけだ。

明治までの日本女性から香ってくるのは、もちろん化粧のにおいだったろうが、なかでいちばんつよいのは髪油のにおいだったはずだ。髪油につかう香料は香水の原料と変わりなく、香水の蒸留水やアルコールの代わりに、各種の油をつかうだけのちがいだ。大相撲の力士のそばによると、なによりも鬢付油がつよくにおう。髪油は男女ともつけるので、男女とも髪を長くのばして髷を結っていた江戸時代の人々は、なんのにおいよりも、この鬢付油のにおいに慣れていただろう。

江戸時代の女性があまり香りものを使っていなかったのは、髪油のにおいと紛れてしまうためと思われる。江戸初・中期の、まだ複雑な髪型を油で固めて結っていなかった時期には、衣服に香を焚きしめる女性のすがたが、初期浮世絵の一枚絵になっている。

日露戦争(1904、1905年)以後、1900年代後半頃(明治40年前後)から、油をほとんどつけない廂髪の束髪が流行した。この時代、夏など混んだ電車のなかで、女性の髪の悪臭はまわりの人を閉口させたらしい。女性が頻繁に髪の毛を洗うようになるのは、洋髪の時代に入ってからで、それ以前、水道設備も不完全だったため、髪の汚れは丹念に櫛ですいてとるしかなかった。とりわけ関西の女性は、髪を洗うことを嫌ったといわれる。

悪臭をなにか香料で紛らわせようとする方法は、たいていの場合うまくいかない。また、ある女性がつかう何種類かの化粧品は、それぞれが香りをもっているため、その相乗効果もかならずしもよい結果をうまない。化粧品メーカーがその点に留意して、無香料の化粧品を製造するようになるのは、かなり後のことだ。1920年代(大正末~昭和初め)以前の白塗り化粧が全盛だった時代は、化粧した女性のにおいはほぼ白粉(おしろい)のにおいだったはず。「白粉臭え女を云々」などというセリフが、舞台でもよくきかれた。

明治・大正の時代に、衣類に香を焚きこめる、というような手間のかかることはさておき、古風な匂い袋を袂に忍ばせるような女性が、どれほどいたろうか。しかしともあれ、第二次大戦前までは、東京横浜の小間物屋でも、京都製の何種類かの匂い袋は店頭にあった。匂い袋につかわれるのは、丁字、甘松(かんしょう)、茴香(ういきょう)、麝香、白檀、龍脳(りゅうのう)など、伝統的な植物香料が主体で、よしありげな名称によってその配合がきまっている。これらは扇子にも使われるが、だんだんと、嗅いでいるとなんだか気分が滅入るとか、お線香臭い、などと言いだすモダンガールが出てくるようになった。

瓶入りの香水は、海外輸入品のなかでももっとも古い品目のひとつだった。またすでに1878(明治11)年という早い時期に、それまで舶来品にかぎっていた宮内省お買い上げ香水を、国産に切替える意向がある、という新聞記事もある。しかし家政書などに香水の具体的な紹介記事が現れるのは、それからかなり時代がさがって、20世紀に入ってからのことだ。これはやはり、それまでの日本風香料とのバッティングの問題も、大きかったためだろう。だから舶来の新しいものに惹かれやすい若い女性や、女学生たちなどのほうが、香水の最初の重要な需要家だったかもしれない(→年表〈現況〉1907年4月 「現代女学生の化粧術」読売新聞 1907/4/12: 3)。

香水はしょせん贅沢品だから、日本でも需要の拡大は、日露戦争後、第一次大戦中の好景気と並行している。1913(大正2)年の[読売新聞]は、一般的に好まれているのはパリのピノオ社製品、通人むきにはウビガン社のもの、としている。また1917(大正6)年の同紙は、資生堂の担当者談として、これまでの日本女性は濃厚な香りを歓迎していたが、最近はスッキリした香りを好むように変わってきている、と報じている。日本女性のこうした嗜好の変化は、長いスパンの調査でも跡づけられるらしく、おなじく資生堂による、最近になってからの総括の結果はつぎのとおり。

いわゆる舶来香水が甘くて重い香りから、五〇年の歳月を経て徐々に軽い爽やかな方向へとシフトしていることがわかる。これらの(舶来)香水には天然香料、とくに天然のフローラル、ムスクやアンバーが比較的多く使われていて、華やかで重厚な香りとなっていた。
(森下薫「日本の香り文化を振り返って」『日本の化粧文化』おいでるみん(資生堂) 特集号)2002/12月: 193)

大戦後の香水の愛好者はさらに増加した。香水の取材に密着していた読売新聞は、「売れ行きが伸びて、素人でも敏感に匂いを嗅ぎ分けるようになった。品質がよくて安いのはフランス製」と報じている(→年表〈現況〉1922年7月 「香水愛用の激増」読売新聞 1922/7/26: 4)。

オーデコロンの人気はやや遅れて、1920年代半ば(昭和初め頃)。床撒き(とこまき)香水などといわれた。香水の量をつかいすぎる傾向のある日本人には向いていたとも言えるだろう。

(大丸 弘)