| テーマ | 美容 |
|---|---|
| No. | 206 |
| タイトル | 石鹸 |
| 解説 | 日本での石鹸は、開化後まもない1873(明治6)年に、横浜に最初の製造工場が設立されているくらいなので、普及は早かったものとみられる。1898(明治31)年に都新聞社が石鹸と化粧水の人気投票を企てたとき、同社の調べた範囲で、石鹸、化粧水、白粉(おしろい)、歯磨き等の化粧品を製造している業者が東京市内に56軒あった。各業者の商品から一種類だけが紹介されているため、ここではたとえば福原資生堂は衛生歯磨となっていて、じっさい石鹸を製造販売している業者の数はわからないが、50軒近い製造業者とブランド名があったのだろう。なかには金庫石鹸、戦争石鹸などという奇妙な名をつけているものもある。資生堂のほか花王、ミツワといった耳慣れたメーカーも、明治の中頃には存在していた。しかしそのわりには貴重品だったのか、顔を洗うのに石鹸を使うのは贅沢と思われていたらしい。また、これは東京の話ではないが、夏目漱石の『草枕』(1906)で、床屋の主人が、髭剃りに石鹸を使わないのを自慢にしていたりする。 石鹸は簡単に言ってしまえば、苛性ソーダと油脂から製造されるが、最初のうちは植物油脂として外国から椰子油を輸入していた。それが1879(明治12)年に伊豆の新島で、椰子油に変わらない効能をもつ黒ダミの実が発見され、製造を試みたところ上質の石鹸が出来たとの記録がある(→年表〈現況〉1879年1月 「国産原料の石鹸」東京日日新聞 1879/1/27: n.78)。 生活実用品としての石鹸は、化粧石鹸、洗濯石鹸とも、国内の製品でじゅうぶん役に立っていたが、とくに顔や髪を洗うとなると、長い間の習慣や、舶来品崇拝の気持ち、また実際、含まれている香料の点で外国製品にはとても及ばない、ということから、米糠など伝統的な洗顔洗髪料の使用は関東大震災以後もかわらず、また高価な舶来石鹸の使用は第二次大戦による輸入制限までつづいた。 石鹸以前に洗濯のために使っていたのは、灰汁、いろいろな木の実や皮、石灰、米のとぎ汁などだったが、洗濯石鹸の普及は比較的はやかったと考えられる。それは洗濯板の場合同様、近代前半期はまだ水道が各戸に通じてなく、洗濯はだいたい共同だったからだ。 洗浄力の十分でなかった時代の洗濯石鹸は、フレーク状に削って、その水に洗濯物を一晩浸けておくことが勧められている。また白いものを洗うには、ソーダを併せて使うことも勧められている。 なお、洗濯石鹸のなかに、マルセル石鹸という種類があった。とりわけ物不足になってきた時代、庶民の間では高級品のイメージで流通していた。これはもちろんかなり昔のサボン・ド・マルセイユ(Savon de Marseille)の名を勝手に利用したもので、それとはべつに関係はない。「○○マルセル石鹸」というブランドは戦後もあって、やはり絹もの洗いなどに使う高品質石鹸であるような謳い文句だった。 粉石鹸が現れるのは合成洗剤の出現後だから、ずっと後のことになる。合成洗剤という言いかたは、従来の石鹸自体がすでに人工物の合成による製品なのだから、適切ではない。石油を原料としたいわゆる合成洗剤はドイツで発明され、日本でも1937(昭和12)年に市販されるようになった。粉石鹸の普及は、いうまでもなく電気洗濯機の普及と並行しているので、戦後のこと。 石鹸以前に洗顔や入浴で使われていたのは、植物性の洗い粉か、糠袋だった。糠袋は簡単なものだから、裁縫のお稽古でも作られたが、小綺麗な既製のものを糠屋の店頭で売っていた。また表面のザラついている布を、垢擦りと称して、かならず銭湯には持参した。呉絽フクレンという生地はほかの用途以上に、とにかく垢擦りとして重用された。とくに男性は糠袋なんぞは嫌って、手拭いや垢擦りでゴシゴシやるほうを好んだようだ。三井呉服店の1905(明治38)年10月の【時好】に、俳人の武田桜桃が書いた「呉羅(ごろ)の今昔」という小品がある。その副題が、「昔は佳人の細腰に纏われ今はおさんの垢摺となる」。彼によれば、「呉羅覆輪」がはじめてオランダから入ってきたのは1871(明治4)年。最初はその硬さから女帯として珍重されたが、だんだんに下落して、入浴の垢摺りに重宝されるまでになった。しかしそれももう先が見えている――。 石鹸(しゃぼん)さんとは敵同士。あれが流行りだしてからと云うもの、わたしは段々迫(せば)められて、なかにはもう垢摺なんぞを使うのは野蛮だなんて仰るんです(……)。 女性が顔を洗うのに鶯の糞を使ったことはよく知られている。鶯の糞は加水分解酵素が含まれているので、皮膚の角質層をはがし、滑らかにする効用はたしかにあるという。しかししょせん小さな鳥の糞のことだから、そう大量には得られない。からだを洗うのには糠袋を使い、オリーブ色をしたほんの少量の糞を、宝物のように顔にぬったのだろう。江戸時代、飼い鳥として鶯が多かったのは、ご隠居さんが、ホーホケキョという鳴き声を聴くのだけが目的だったのではない。もちろん鶯の糞だけに特殊な効用があったわけではなく、近い種類の小鳥にはいくぶん効力は落ちても、同じよう効用はあったはずだ。実際、薬種屋で鶯の糞として売っている袋入りの粉末は、ほとんどが鶯の従姉妹ぐらいの鳥の糞だったらしい。 1937(昭和12)年の贅沢品輸入制限・禁止措置以後、舶来の石鹸などはとうに手に入らなくなったばかりでなく、やがて油脂類の不足から、国内の石鹸の製造が縮小されはじめる。この時代から戦後5、6年にわたる期間、ほかのあらゆる物資同様、乏しい配給に頼るしかない大多数の庶民にとって、石鹸は食料とおなじくらいの貴重品になった。そこで出回りはじめたのが、かたちも無細工なノー・ブランド石鹸だった。牛小屋のようなバラックで製造されているのかもしれないこの種の石鹸には、洗濯石鹸が多かった。いくらこすっても、揉んでも、泡の出てこない石鹸。そしていたずらに油臭さだけが布や手に残ってしまう無香料石鹸との生活に慣れたあと、石鹸のにおいを思いださせてくれたのは、戦後まず、アメリカの進駐軍だった。 進駐軍がもたらした化粧石鹸は、たぶん兵士用の安い石鹸ではあったのだろうが、もう忘れていた石鹸のにおいを思い出させてくれた。訪れることを許された少数の日本人にとっては、兵士たちの居住しているカマボコ兵舎の内部のにおいが、まさにそれだった。 化粧石鹸の使い方で、日本人と、欧米人とのちがいは、彼らは身体を石鹸で洗ったあと、泡を拭きとる程度で、石鹸の残り香を身体に残すひとが多いが、日本人は、洗濯のすすぎのように丹念にお湯をかけて、石鹸の香りも残さないようにする。 (大丸 弘) |