近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 美容
No. 204
タイトル 肌の手入れ/美顔術
解説

日本女性の化粧は、顔、襟もとに白粉(おしろい)を塗ることが中心だったから、肌そのものの手入れには関心が低かった。江戸時代から何種類かの化粧水は売りだされているが、宣伝ほどの効用があったのか、その成分とともによくわからない。

明治に入ってのちも、何々水とか何々液とかいう化粧水のたぐいが、つねに新聞広告に見られ、かなりの売れゆきがあったらしい。おもに白粉下につかわれていたものだろう。

そのころの肌の手入れで忘れることのできないのは、ひび、あかぎれ、霜焼けの手当だ。日中戦争のはじまっている1939(昭和14)年という時代になっても、新聞の家庭欄にこんな助言がのっている。

寒風にさらされた手のひびから、知らぬ間に血が出て、着物を汚すことがあります。そういう時には、生大根か唾でぬらした後で、布でしめし取るとキレイになります。大根より唾の方がよく利きますが、もし唾がなければ、含み水をして口中の温度に暖めてからぬらすか、綺麗なものなら直接口にくわえてしめしてもよいのです。
(「ひびの血」朝日新聞 1939/1/5: 6)

洗濯や食器の洗いあげに湯沸し器のお湯をつかえるようになるのは、1960年代(昭和30年後半~40年前半)以後のこと、真冬は指先の切れそうな水道の水に手を浸けて、洗濯が終わるころには手は無感覚になっている。ひびや霜焼けは子どもや若い人にできやすかったから、冬の花嫁さんの手が真っ赤に膨れていて、白粉のつけようがないと、美容師が嘆くようなこともあった。そんな女性のために、ひび霜焼けの妙薬という黒い膏薬が、水に手を入れる商売のお豆腐屋さんで、蛤の貝がらに入れて売られていた。

美顔術と名づけられたフェイシャル・マッサージの美容法は、日露戦争直後の1905(明治38)年頃に、男子理髪とともにはじまっている。蒸しタオルで皮膚を温めたあとマッサージクリームを擦りこみ、指先のマッサージと、カッピングによって汚れを吸収する、というのが基本的な方法だった。もちろん欧米人から学んだ技術だったが、だれからどういうかたちで伝わったのか、業界伝説はいろいろあっても、本当のところははっきりしていない。一般の髪結業者では、あいかわらず白塗り化粧がつづけられていたので、美顔術ということばの評判になったわりには、実際に施術する店はごくわずかだった。美顔術の功績のひとつは、クリームの使用を普及させたことだったかもしれない。

開拓者のひとり、遠藤波津子の理容館が美顔術を売りものに銀座に開業したのは1905年のことという(『遠藤波津子の世界』1985)。美顔術というネーミング自体があまりに率直すぎて、店の敷居をまたぐにはかなりの勇気が必要だったようだ。それから10年以上もたった1918(大正7)年に、婦女界社の女性記者が、この時代の第一人者だった北原十三男の東京美容院を取材した。彼女は「あの門を入る私を見て、きっと、あゝあの人も顔のみ綺麗にしたいお仲間!と思われるでしょう」と躊躇している。そして、「これは丁度私達が婦人科のお医者様の門を出入りする時、人から子宮病の患者と思われはすまいかと気遣うのと同じ様なこと」とまで言っている。しかしその一方では、「けれども当今のお若い方々の中には、こんなところへ足繁く出入りする事をひとつの誇(プライド)と思っていらっしゃる人さえ、ないではないそうです」とも言っている。このとき婦人記者のうけた、マッサージと電気のカップリングの美顔術の料金が50銭、「矢っ張り心配した通り、如何にも御念入りの化粧を致しましたと、一目で知れるような顔になって居りました」(「美顔術をうけたときの思い出」【婦女界】1918/8月)。

1920年代(ほぼ大正末)以降になると、一般の髪結さんでも、お嫁さんの支度には何日か前から店に通ってもらい、式の当日白粉のノリがよいように、肌の下ごしらえをしておく、ということをしはじめる。美顔術の看板はあげていなくても、その下ごしらえとは、クリームをよく指先で擦りこんで、簡単なマッサージをすることだった。やがてこのマッサージに、東京美容院の施術のように一種の電気器具が用いられたり、その器具を持参して出張施術する美容師も現れる。

肌の手入れのひとつに、むだ毛の処理がある。日本の女性のなかにもわずかながら、口のまわりのうぶ毛が濃くて、目立つひとがある。髪結――美容業者は剃刀をつかう訓練はしていなかったが、眉毛のそり込みなどの必要から、使い慣れてはいた。しかし剃刀で剃るとうぶ毛はよけい濃くなると信じられていたため、たいていは白粉を濃く塗って隠すようなことをした。

レビューの歌姫たちが、なぜあんなに美しく見えるのかご存じでしょうか。あれは何でもない、彼女らの頬や襟足のむだ毛が、キレイに剃られているためです。どんなにそれがために、スッキリと垢抜けて見えることでしょう。
(→年表〈現況〉1935年11月 山本峰子「女性と顔剃り」読売新聞 1935/11/12: 9)

新聞の家庭欄にこの記事を書いたのは皮膚科の医師で、女性の毛が顔剃りで濃くなるというのはまちがい、と指摘している。

手足のむだ毛に関心が及んでくるのは、1930年代(昭和戦前期)のこと。オキシフルで脱色する方法や、脱毛剤を勧める記事も現れる。もっと厄介なのは脇毛の処理だった。欧米の女性は日常的には脇毛を気にしない。南ヨーロッパの一部地域をのぞけば、袖のない衣服を着るような風土でないためだ。日本の夏は下層民の女でなくても、袖無しを着、腕を捲るのはふつうのことだったが、その場合、脇の下の毛を気にしたような事例があったろうか。開化まもない1875(明治8)年の[読売新聞]に、汗をかいたとき邪魔だと言って、脇毛を抜いているひとがいるが、一体脇毛はなんの役にたつのだろうか、という投書があった。明治以後の化粧する女のスナップを見ても、脇毛はそのままにしているらしく、またとくにそのことにふれている資料もみあたらない。1899(明治32)年の中将湯の新聞広告では、医師が大丸髷の女性を上半身裸にして診察している絵が出ているが、その人妻には黒々と脇毛が描いてある。

1930年代に入った頃から、なぜか脇毛への関心が強くなっている。「日本の婦人は洋装しても、脇毛をそのままにしているのが大半である」というある医師の発言もあったが、1930(昭和5)年前後にはすでに「エワクレーム」といった脱毛クリームが発売されていた。

脇の下を見せるのが刺激的、ということは浅草の舞台などではよく承知されていたらしいが、(→年表〈現況〉1919年6月 「脇の下」都新聞 1919/6/5: 5) 脇毛を剃る、あるいは脱毛するはじまりは、おそらく外国映画の影響だろう。

腕を出すからには脇毛はなくしておきたいものです。外国人のそれに比して日本人の脇毛は黒々していますから、その存在性は実に明瞭すぎて困ります。脇毛を無くするには脱毛剤を用います。
(メイ・牛山「腕と手のお化粧」【婦人世界】1932/6月)
(大丸 弘)