近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 美容
No. 214
タイトル 床屋/理髪店
解説

開化の時代になっても女の髪型は変わらなかったが、男のほうは斬髪になったため、床屋の仕事の内容がすっかり変わった。1898(明治31)年8月7日、14日の2回にわたって[時事新報]は、「理髪の沿革」という読物を掲載した。それによると新しい理髪の技術は、横浜はじめ開港した5つの港の髪結が、異国船の来るごとにつてを求めて、一挺の剃刀をたずさえてその船に出入りし、乗組の西洋人の顔を剃って存外の儲けをした。その連中がやがて、乗船していた理髪師等から、西洋風の鋏の使いようを習い覚えたもの、としている。

美容家の芝山みよかの父親・芝山兼太郎(~1929)もそのなかのひとりか、二代目だろう。彼が西洋人から習得した熱アイロンの技術が、やがて女性の美容にも応用されて、洋髪普及の先駆けとなったという(→年表〈事件〉1929年11月 芝山兼太郎没)。もっともある技術の創始とか、器具の最初の使用とかは、仮に本人がそう信じていたとしても、事実は不確かなことが多い。『東京風俗志』(1899~1902)でも、斬髪床はだれが最初、などと断定しているが、とりわけ明治初年についてはたいていのことは霧の中だし、最初のひとりがだれ、などということは、多くの場合どうでもよいことだ。

男の髪を結う髪結は、明治に入ってからは当然すぐになくなり、歌舞伎の《髪結新三(しんざ)》で記憶されるくらいになった。女の髪をあつかう髪結さんという言い方は1930年代(昭和戦前期)までは残っていた。男の髪のほうは理髪という漢語でか、散髪屋、もしくは以前どおり床屋とよばれて、今日までつづいている。散髪は古いことばだが、本来の意味はやや異なる。おそらく斬髪と紛れたのだろう。関東では床屋さんという方が普通だ。

明治初年の床屋は見よう見まねで覚えた半素人が多かったから、その技術はひどいものだったらしく、いろいろな珍談がのこっている。開港場では、洋服屋や靴屋とおなじように清国人の理髪業者が幅をきかせていた。清国人床屋は耳垢とりが巧みで、その気持ちよさは病みつきになるほど。また頼めば、眼脂(めやに)とりまでしてくれた。しかしそのどちらも、1906(明治39)年に警視庁令で禁じられた。耳ほりは日本人の床屋さんのなかに、お得意さん相手にその後もずっと内緒で続けている店があった。

耳垢とり、眼瞼内の掃除などが禁止された理由は、病毒伝染の虞れあり、ということだった。1890年代(ほぼ明治20年代)以後になると、理髪業者も徒弟修業を経て一人前になるのがふつうになり、剃刀の腕のほうは確かだったろうが、衛生面に無頓着な店がかなり多かったようだ。床屋の出てくるそのころの小説などでも、タオルの汚いこと、顔を濡らす水はいつ換えたものかわからない、親方が臭い息を吐きかける、などの描写によくお目にかかる。1920年代頃(ほぼ大正末)までの理髪業は、衛生改善との戦いだった、といってよいくらいだ。

東京府はもちろん、全国に率先して理髪業者の衛生面向上に努力している。最初の〈理髪営業取締規則〉(警視庁令10号)の公布は1901(明治34)年3月だった。それ以前の多くの理髪業者は、鋏、剃刀、櫛などを、どの客にも共用していた。東京の牛込警察署長は管区内の理髪業者を集めて、その点につきこんこん説諭したところ、これを受けて牛込の理髪業者は、他区に率先して器具類の熱湯・石炭酸消毒を実施することになった。しかも料金は一銭も上げないで。翌年1月、警視庁は理髪業者組合の責任者を招集し、店内の消毒の励行を訓示した。3月には、麹町警察署管内の理髪業者50余名を呼んで、署長および技手より消毒法についての指導をおこなった。こうした断片的情報は当時の新聞から拾えたものだけだ。警視庁は理髪業取締専務巡査まで置いて、取り締まりの厳重励行を期したが、結局、衛生環境の向上は不十分な段階にとどまった。それは要するに業者の無智と、経済的負担の重すぎることが妨げになっていた、と(「理髪業者衛生励行新取締法が発布される」朝日新聞 1915/2/4: 5)。

小僧上がりの親方のなかには、小学校も満足に出ていない人もいたろうから、業者の無智、という点はまちがいともいえまい。しかし理髪業者の側にも言い分はある。1912(大正元)年12月に東京本郷のある理髪店主は、〈理髪営業取締規則〉の改正に向けて、結核予防に関する項目の追加を請願しようとした。その店主によれば、理髪業者10人のうち9人は肺結核で死亡する。これは仕事柄お客の顔のそばで呼吸するから、お客と理髪人とはおたがいに結核に感染しやすい。また、床屋の床(ゆか)はたいてい土間であるため、客はやたらに痰唾を吐き散らす、と(「肺結核と理髪業者」 東京日日新聞 1912/12/23: 3)。

衛生的な環境をつくるための費用は小さくなかった。江戸時代の床屋――男髪結は、いわゆる鬢盥(びんだらい)ひとつ提げて結い歩くことができた。明治以後でも女髪結は、外結いでも店結いでも、小風呂敷ひとつに入るくらいの道具でことたりた。それに対して新しい理髪業は、まず外結いができなくなった。ちいさくても店をもつとなると、まず必要なのは大鏡で、3尺×4尺くらいのものが2枚は必要。つぎは椅子。「倚子は散髪床の看板ともいうべくして若し之なき時は通常の結髪床と見誤まられ客人に素通りさるるの常なり」とは、「理髪の沿革」(時事新報 1898/8/7: 9)における、1873、1874(明治6、7)年頃の理髪店の描写。理髪店の椅子がその後、歯科診療のイス同様、独自の機能をもつものに発達したことは、だれも知っている。

理髪店になくてはならないものが洗髪設備だ。公共水道の引けたのは、東京・大阪のような大都市でも1900年代(ほぼ明治末)以後だったから、それまでは、大きな樽に水を張って高いところにすえる、一時期の水洗便所のような設備をもつ店もあった。

店内の設備ではないが、店頭に赤青だんだらのサインポールを出すこともごく初期からの習慣。

1904(明治37)年1月増刊の【文芸界】に、極上等の理髪店といって、つぎのような描写がある。

すっかり西洋造りのペンキ塗り、入口には硝子入か何かの西洋戸があって、それを開けると上履きがあろうというのだ。これをつっかけて入ると綺麗な板の間、テーブルに花瓶などよろしく(……)仕事場は二階の広間、待合室には新聞雑誌類が幾種か備えてあって(……)煎茶若しくは珈琲がすぐ客の前に出る、かける布も一遍々々取替える、香水も上等なのを振りかける、其処で髪を刈って五十銭は黙って取られる(……)。
(丁々子「理髪店」【文芸界】3巻2号 1904/1月 増刊)
(大丸 弘)