| テーマ | 美容 |
|---|---|
| No. | 215 |
| タイトル | 髪結/美容院 |
| 解説 | 髪結ときくと、歌舞伎好きの人だったら《髪結新三(しんざ)》を思い浮かべるかもしれない。江戸時代の髪結業者には男も女もいたが、男で、お客の家へ出かけていって仕事をする、出髪結(でがみゆい)のかたちが多かった。そのころはたいていの人は髪は自分で結っていたから、商売人に髪を結わせるような女性は、商人でもかなりの身代の家にかぎり、そういう家の女はめったなことでは家から出なかったのだ。 明治になると、女性の髪を結う男性の髪結というのはいなくなって、髪結という商売は女性に独占された。女髪結はやはり客の家を訪れて仕事をする出髪結、あるいは外結というのがふつうだったが、だんだんと名の売れた商売人が出てきて、そういう人は看板を出して客の来るのを待つかたちになる。 店の看板はたいてい「おぐしあげ」で、その下に小さく名前を書いてあるのもある。お客には「かみいさん」といわれた。かみいさんといういい方はもちろん、外結の髪結にも使われる。「今日はかみいさんの来る日だよ」などと。髪結にしてみると、小さくても店をもって、出歩かないですむ方がいいにきまっている。しかし出不精だったその時分の主婦たちは、来てもらえないんだったら他の人にする、ということでせっかくのお得意さんを失ってしまうおそれがある。これは髪結とお客の力関係だった。だから仮に店をもって看板を出しても、何人かのだいじなお得意さんの所だけはまわる、という髪結が多かった。雑誌に顔写真の出るような名前の売れた髪結でも、何軒かの華族さんのお宅へは人力車に乗ってでもお伺いしている、というのが普通だった。 店持ちの髪結には、外結専門を下に見る傾向があり、税金遁れだという悪口もあったそうだが、事実は、納税している髪結はごくわずかだった。1896(明治29)年に新設された、国税としての営業税は、資本金500円以上、売上高1,000円以上、従業員2名以上ということだったため、梳き手一人二人くらいの結髪業者は対象にならなかった。また1887(明治20)年に導入された最初の所得税は、年間所得が300円以上の所帯が対象だったから、これも問題外だった。髪結はだいたい内職とみなされていた。 東京・横浜周辺についていえば、関東大震災(1923)あたりまでが、それまでの髪結業者にとっては平穏な時期だったろう。髪結はすべて年季奉公で一人前になる。年季は14、5歳から3、4年、礼奉公1年というのがふつうで、不器用な娘はもっとかかる場合もあるが、そんな子は店ももてない。髪型はよく結うものを5、6種類も教われば、あとは見よう見まねと自分の工夫で、たいていのものは結えるようになる。髪結はその時代としてはめずらしく、女が自活できる職業だったから、嫁に貰い手のないような女ばかりがなった、という悪口をよくいわれるが、手仕事が好きでなった人も多い。自分がきれいになりたいし、人もきれいにするのが好き、という想いをもつ娘もあった。だから結果としてはで好みで、なかには身もちのわるい者もいて、髪結の評判を落とす原因になったのだ。 平穏な時期がつづいたというのは、洋髪を結う女性が日本髪より多くなるまでは、仕事の内容に大きな波瀾がなかったためだ。1910年代、大正と変わるころから、束髪に変化が現れだした。束髪の流行そのものは、お客が減ったというだけのことだった。ところがその束髪のなかに、今まで経験しなかった、アイロンをつかう技術が入ってきた。それが洋髪だ。年輩の髪結さんはだいたい洋髪をきらった。洋髪の自由な造形性に感覚的についてもいけなかったし、アイロンが怖い、というひともあったらしい。 髪結店の看板が、おぐしあげ、から、和洋結髪に変わった。それから10年ほどして、今度はパーマネントウエーブが入ってきた。都会の髪結店でパーマをしなければ商売にならなくなったのは、だいたい1935(昭和10)年前後だ。丸髷や島田の修業できたえた髪結さんたちは、まったく系統のちがう技術を、ときには自分よりずっと若い先生について、学ばなければならなかった。 大変だったのはそれより、設備のための費用だったろう。それまでは櫛や油の入った小風呂敷ひとつを提げて外結にも行けた。パーマネントの商売には、化け物のように大きな蛸足のパーマネント器と、大型ドライヤーが要る。それ以上に金のかかるのは洗髪のための水道設備と、ときには天井裏からやり換えなければならなかった電気配線だ。だからパーマネントをはじめると同時に、それまでの入口の格子戸を、一枚ガラスのドアにするなど、店の模様替えをするのがふつうだった。美容院の誕生だ。 美容院ということばは大震災前からもあったが、大都会の風物のように増えてきたのは1930年代(昭和5年~)に入ってからだった。和洋結髪が美容院になると、きのうまでの髪結さん(かみいさん)は美容師になって、先生と呼ばれた。それまではお師匠さん(おっしょさん)がふつうだった。先生と呼ばれたのは他にも理由がある。そのころになるともう、年季奉公で職を身につける娘さんは少なくなり、美容学校出の人が入ってきた。年季あがりの店主がいやがっても、若い従業員たちは、先生というほうが呼び慣れていたのだ。 洋髪以後の髪型には、それ以前の髪型とのあいだに、決定的なちがいがひとつある。洋髪以後は、髪型に島田とか銀杏返しとかいう、基本的な定型がなくなり、ひとりひとりのヘアスタイルは自由になった。よいスタイルかどうかは、お客の好みと美容師のセンス、および技術次第だ。 年輩の髪結さんがついていけなかったのは、組合や資生堂の講習会に通って、アンモニアの講義を聴くことよりも、この点だったようだ。 (大丸 弘) |