近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 美容
No. 216
タイトル 女性断髪
解説

女性の断髪は1920年代後半(昭和初め)に、いわゆるモダンガールとからんで話題になった。ただし女性が髪を短くすることを広い視野でとらえるなら、それは今さらのことではない。

仏教では戒を受けて仏門に入るとき、その印のひとつとして剃髪する。しかし釈迦の時代のインドにそういう習慣はなかったらしいので、後世にさまざまな実際的理由や、理屈から生まれた習慣だろう。

古い時代のわが国では、男女とも髪はのびるままにし、男性はかんたんに結んでいた。江戸時代中期以後、女性も髪を結びあげるようになり、その結び様が技巧的になって、女性の容粧の中心のようになる。そのため髪を切るには大変な覚悟のいることになって、前非を悔いた女が髷をぶっつり切り落とすとか、反対に妻の不身もちに腹をたてた夫が女の髷を切りとるとかいう雑報記事が、明治時代の新聞にはかなり見受けられる。

もっともそういう場合は、髷の根の、元結いのかかっているあたりをぶっつり切る、のであって、髷以外の部分、前髪や鬢、たぼはそのままだから、馬の尾のような簡単な束ね髪にならじゅうぶんできる。事実、豊かな毛をもっている貧乏人は、こうして髪の毛をかもじ屋に売って、小遣いを稼げたものだ。だから一口に髪を切った、といっても、落語の「大山詣り」の欺された女房たちのように、出家得度した坊さんとおなじ、つるつるの薬罐あたまにしたとはかぎらない。

1871(明治4)年の8月に、散髪、制服、略服、脱刀が勝手、という太政官からの触れが出、翌年2月に重ねて、散髪については勝手たるべきこと、との布令が出た。この時代はまだ新聞などなかったから、行政の布告なども相変わらず高札にたよっていたので、たいていは噂のようにして広まったのだろう。1872(明治5)年の4月になって、つぎのような補足の東京府令が出されている。

散髪ノ儀ハ勝手タルベキ旨先般御布告相成、右ハ専ラ男子ニ限候処近来婦女子ノ中ヘモザンギリ相成候者往々相見エ畢竟御趣意ヲ取違候儀ニ可有之、抑婦人女子衣類ハ素ヨリ男子トハ区別ノ御制度ニ候条婦女子ノ儀ハ従前ノ通リ相心得御趣意ヲ取違不申様可致候

この時代の記録を見ると、かなり大胆なザンギリ女性がいたようで、いつの時代にも進取の気性をもった女性はいるものとみえる。

1920年代(大正末~昭和初め)の女性断髪は、もともと第一次大戦の直後からヨーロッパではじまっている。だからその起源が直接間接に戦争の影響であることはまずたしかだ。わが国にひとつの流行として入ってきたのは、それから6、7年後のこと。それまでのあいだは欧米の流行の様子が紹介されてはいたが、知名人のだれかれが断髪にしている、というニュースがたまに現れる程度だった。

1920、1930年代の断髪を今日、ときを隔ててみれば、マスコミが話題にしたほどに流行などしてはいなかったようだ。銀座で撮影しようと待ちかまえていたカメラマンが、とうとう1時間、1枚も撮れなかった、という話もあるし、銀座に店をもっていた有名美容師が、断髪のお客は1日ひとりかふたり、ともいっている。そしてその微々たる断髪女性に対する世間の風あたりはつよく、「神から授かった緑の黒髪を切ったりするのはもっての外です」(大妻コタカ 東京日日新聞 1935/7/18: 6)ときらわれた。

髪を切って詫びるとか、みせしめにする、というほどのことでなくても、まだ一般には長い髪だった時代、女性が髪を短く切るというのは、丸髷を銀杏返しに結い変えるのとはちがう、心のなにかがある場合もあるだろう。

ぼくは葉子さんが、あの断髪にした時に、あの人の心の動きというか機微というか、何かそういうものを感じましたよ。
(徳田秋声『仮装人物』1938)

1920年代後半から1930年代にかけて(昭和5年~)の断髪に関して、理解しておくべき2、3の点がある。第一は、一口に断髪といっても、髪の長さは一様ではないことだ。男性の刈り上げとおなじように短く切って、耳の後あたりの地肌がみえるような本格的(?)ボブもあるし、一見断髪風に見えて、じつはうまく裾のほうでロールアップしている髪型もある。お尻にとどきそうな髪に慣れている女性は、肩にかかる程度の長さに切ることも怖れたので、断髪ということばの基準はマチマチだ。またその名称についても、ボブ・カットが何センチ、ペイジ・ボーイがどのあたりまで、などというきまりなどありはしない。

第二は、断髪にかぎらないが、この種の流行の「もう廃った」という意見だ。かつて束髪のときもそうだったし、このあと耳隠しのときもそうだ。戦後のミニスカートでもおなじ意見が新聞などに出た。新しい流行が現れると、それをひどく、親の敵のように、神経的に憎む人々がいる。しかし自分の感覚が、新しいものを受けいれられないと思うのがいやなため、そんなものはちっとも新しくないのだ、ツタンカーメンの時代にもあったのだ、とか、ちょっとした情報を過大に強調して、もう外国では断髪は古くなっているんだ、とか主張する。この種の人は、断髪はもと虱避けのためにはじまったんだといったことを最後まで言いつづけて、なんとか笑いものにしようと努力していた。

第三は、断髪が和服には似合わない、という考えかただ。似合う似合わないということは、基本的には「見慣れ」に尽きると考えてよい。似合わないという意見は、おもしろいことに、美容師などその畑の専門家がよく口にする。アイロンウエーブは日本人には似合わない、耳隠しは日本人に似合わない等々は、その時代のいちばん権威のある美容家の主張だった。1920年代(大正末~昭和初め)は女性のほとんどがまだ和装の世界だった。その和装に断髪はまったく似合わないから、断髪はダメ、というつよい意見があった。しかしウエーブや耳隠しのときとおなじように、5年も経たないうちに、そんな意見は消えてしまった。

1930(昭和5)年にかかるころには、つぎのような発言が出はじめている。

長いダン髪の流行は、きものとのいい調和をみせる様になってきました。そして今迄にない新しい美が発見されてきました。
(吉行あぐり「新らしく生れた『女の美』」読売新聞 1930/11/11: 9)
(大丸 弘)