| テーマ | 美容 |
|---|---|
| No. | 201 |
| タイトル | 化粧 |
| 解説 | 化粧の近代80年は、新しい化粧料の発展と、その利用の内容をたどることによって、ほぼ理解されるのは当然だが、あわせて、化粧する目的をめぐっての、さまざまなたて前と本音、また誤解や偏見の推移をみることも興味ぶかい。 江戸時代の女訓書の、女の身だしなみとしての容粧の教えは、その流れをひく実用書のたぐいのなかでは、明治の末まで大きく変わることはなかった。 婦女の化粧とて其の顔色や頭髪を艶(いろ)どり形づくるは、強(あなが)ち男子の眼を悦ばし且つその意(こころ)を迎うる為のみにあらず 是れ婦女の礼式に係りて深き趣意のあるものゆえ其の心得にて化粧すべし(……)若し婦女にして此の化粧をする事をせねば、何を以て其の天性たる繊弱柔和の姿趣を写出して、以て天恩に対(こた)うるの義務を尽くす事の出来べきものぞ(……)。 この本では化粧の章の第一項が、鉄漿つけの教えになっている。 第一 鉄漿は一日置きにかならず之を附くべし 尤も之を附ける時は朝起きて顔を洗いたらば先ず竈(かまど)の下に火を焚附け湯を沸かし飯を炊き汁を煮立て漬物を出し前腕を揃え父母舅姑夫などの起きるまでの間に手早く済まし置くを可とす この本の出た1889(明治22)年は、皇后・皇太后が鉄漿、黛(まゆずみ)を廃し、福沢諭吉が『かたは娘』を刊行した1873(明治6)年から、すでに15年以上経過している。長いあいだつづいた習慣は、そうかんたんには終わらなかったようだ。しかし第六項で著者は、身分や顔姿(かおかたち)年齢に似合うような髪型をえらぶよう勧めているなかで「近年は束髪とて髪の結び方一種風の変わりたるもの世に行わる是にも又唐人形英吉利風まがれ糸上げ巻下げ巻おばこ形などの別ちあれば何れも此の中より似合わしき形を撰び分けて結うべきなり」とあって流行の束髪を勧めているところをみると、一概に頑なな、新しいものぎらいではないらしい。 人妻の化粧はこの本にあるように、家族の起きる前になすべきものとされていた。とりわけ、夫に素顔を見せるのは恥、という考えかたもあった。だからもちろん隣の奥さんが心がけのよい女性であれば、その素顔を見る、などという機会はまずなかった。 もっともそれはむかしのはなしで、1910(明治43)年のいまでは、主婦が鏡の前に向かう時間のいちばん長いのは、朝食の後片づけ、掃除などがおわったあと、毎日だいたい20分、という調査もある(燕友堂「婦人とたしなみ」【流行】(白木屋) 1910/1月)。 さらに時代がすすんだ大正時代(1910~1920年代初め)、一日夫が家をあけるサラリーマンの家庭で、子どものいない奥さんは、早い時間のまだすいている銭湯に行き、ゆっくりと化粧をすませてから夕餉の支度にかかる、というパターンもあった。作家の森田たまが兵庫県の西ノ宮あたりに住んでいたとき、夕ぐれどきになると、夫の帰りを待って門口にたたずんでいる妻たちの、夜目にも真っ白にお化粧した顔を見て、廓(くるわ)で客待ちをしている女たちを連想した、などと意地のわるいことを書いている。 この時代の女性はよく寝化粧をした。休む前に白粉(おしろい)をつけておくと、明朝化粧するときに白粉がのりやすい、というのが理由だったが、皮膚のためにはよろしくないという、医師の警告もある。しかし寝化粧は人妻にとっては、枕を並べる夫へのサービスという目的もあったにちがいない。また晩年まで化粧の濃厚さでは人後に落ちなかった宇野千代は、入浴の際の湯化粧をつねとしていることを、くわしく書き残している。 幕末のことになるが、『半七捕物帳』の「薄雲の碁盤」は、器量よしで知られた芸妓が殺されて、その首だけが碁盤に載せられていたため身元がわからなかった、というはなしだ。その女の顔には薄あばたがあった。しかしその器量よしの芸妓にあばたのあったことを、いっしょに寝起きしている朋輩も知らなかった。幕末の江戸芸妓は薄化粧で知られている。それでも素顔を人に見られたくないため、まだ人の寝ている時間に起きて、念入りに身じまいをしてしまう人はいるわけだ。 素顔を見せないことが人前に出るこころがけであるとともに、化粧という行為そのものもひとつの秘事のように考えられていた。1876(明治9)年の新聞にこんな投書がある。 一体湯屋へ行って白粉をつけるというのは芸妓か地獄か茶屋女に限るようだが、この節は立派な表店の娘達が我も我もと始めましたが、品行の悪いことではありませんか(……)。 それが同性であれ、他人の目のあるところで顔をいじるのは、はしたない。それに明治の末に棒口紅やコンパクトが現れる以前は、化粧を外出先で直すことはむずかしかった。化粧した顔はそのまま一日持って歩かなければならなかったため、一種の面を被っているような認識が、当人にもまわりの人にもあったかもしれない。ちょっとお手洗いで化粧直しをする、という習慣もまだなかった。第一、手軽につかえるようなお手洗いのある、駅も、デパートも、喫茶店もなかった(→参考ノート No.305〈鏡〉)。 電車の中やその他人混みの場所で、ところ構わずコンパクトをだしてパタパタ顔をはたき、果ては衆目を浴びつつ口紅までも御念入りに塗っている人達をよく見受けます。(……)人の見ない場所でお化粧して、そしてコテコテやっていないように見せてこそ、はじめて婦人の身だしなみとなるのではないかと思います。 筆者は、あれでは、こうしなければ私は駄目なのです、と自分の弱点を告白することになる、と言っている。しかしたぶん化粧していた女性は、弱点があるから化粧して、なにがわるいのか、と反論するにちがいない。しかし不美人が化粧して、さも美人であるかのようにふるまうのは、ひとを―たとえば恋人や夫を、あざむくことにはならないのか、という疑問はありうる。 夫がおとなりの奥さんを、きれいだね、といってほめると、お化粧が上手ね、といった返事をする妻が多いのは、化粧の嘘を、女性はチャンと知っているためだろう。 首を落とされた「薄雲の碁盤」の芸者の気持ちもおなじで、やつして(欠点を隠して)きれいに見せているんじゃなく、あの妓はほんとの器量よしなんだと、いわれたかったのだろう。その気持ちは現代でも、眼に立つ傷跡やアザ、大きなシミや、若白髪をもつ人などには、理解されるはずだ。 化粧することへの反感のなかには、覆い隠そうとすることの嘘への反発のほか、消費される時間や金、神経が、ほとんどは自己愛にとどまっていることへの軽蔑もある。 また化粧の呪縛から離れられない女への憐憫のなかには、顔を化粧することと、美しくなることを同一視している錯覚に気づかない愚かしさへの憐れみもある。また、顔や、それにつけくわえるなら十本の手の指、もう十本の足の指だけにしか、きままな自己実現のキャンバスが見いだせない幼さへの、いとおしみがある。 逆に、化粧しないことへの批判も――芸者仲間で嫌われたあの、素顔自慢という傲慢さや、いい年をして、などと言われることばかり気にしている臆病さを、笑う人もある。 (大丸 弘) |