近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 美容
No. 213
タイトル 手とあし
解説

肩から指先全体を手といい、肩から手首までを腕、肩から肘までを二の腕という。二の腕を医学用語では上膊(じょうはく)、あるいは上膊部といい、軍隊や、体育ではそう呼んでいた。

股関節から全体を足といい、膝から上を腿、あるいは太ももといい、医学用語では大腿部。股という字は、ももにも、またにも使っていてはなはだ不都合だ。漢字が使いたいなら、または股関節の股、ももは大腿部の腿の字を使うべきだ。

膝から足首までをすねという。はぎという言い方もあるが、古い言い方で、いまはふくらはぎ以外はあまり使わない。すねの前方、骨のある側を向こうずねといって、ぶつけると非常に痛いので弁慶の泣きどころなどという。本来はこの骨、脛骨のことをすねという。その後ろ側、やわらかい部分がふくらはぎでマッサージの急所らしい。

足首から指までには、日常的な名称はないようだ。ただし狭義のあしはこの部分で、とくに文字で書く場合には、この部分を足とかき、股関節から足首までを脚、と区別する。

だから足の甲とか、足の裏とかいっても、すねや膝とまちがうことはない。脚衣というのはゲートルやレギンス、脛当ての類で、はきものではない。

足首の突起した骨がくるぶし、そのほか足には、ゆび、甲、かかと、足の裏、土踏まず、といった名どころがある。

くび、手首、足首はからだの3カ所、くびという言いかたをする部分で、つかみやすいし、ものを固定もしやすい。くびには襟やカラー、手首はカフスで固定するが、足首には今はそういうものがなくなった。かつては足袋のトップが足首まであって、紐でしっかり縛っていたのだが、だんだんと浅くなり、コハゼ掛けに変わった。明治初期の足袋にはまだ紐のついたものや、深いものがのこっていたが。

くびと手首足首とは発達的には関係があるともいう。くびのほっそりした女性は華奢で、むかし風にいえば蒲柳の質、あしもほっそりしているという。男であまり首の細いのは弱々しく、逆に猪首というのはあまりスマートではない。ショートスカートの女性があしの美しさを気にするのは当然だが、あしが美しい線を描くのは、足首からせいぜい膝上10センチくらいまでで、それより上の太もも部分が入ると、街頭では迫力のほうが勝ってしまう。若い女性のふくらはぎはだれでも豊かなので、あしの美しさは足首のほっそりしていることが条件だろうが、畳生活時代の日本女性にはそれが案外得がたかったらしい。

畳のうえの正座はあしの発育にはのぞましくないということは、はやい時代から言われていた。けれども畳を擦るようなきものの裾に何層にもつつまれているあいだは、女性のあしの発育にも魅力にも、世の中のひとはほとんど無関心だったろう。明治の末になって、この頃の娘が母より大きくなったのは、学校で椅子腰掛を用いているためだろう、といった新聞記事が現れるようになる(→年表〈現況〉1910年5月 「母より大きい娘」時事新報 1910/5/18: 9)。

女性のあしが注目を浴びるようになったのは、街に洋装の若い女性が目立ちはじめ、たまたまその時期が欧米のフラッパーの流行と合致した、1920年代の半ば(昭和初め頃)になる。

この春の婦人洋服は、スカートがずっと短くなってしかも襞がなく、胴から下へまっすぐに竹ずっぽうのようになって、膝が出るかと思われる位、その短いスカートの下から肌の色とおなじような或いは肌の色を誇張したような色の絹靴下の美しい脚を見せるのが専ら流行である。
(「春の婦人服は裾が短く膝が出る―」読売新聞 1925/4/14: 7)
西洋では婦人が段々とスカートをまくり上げて、脚を出すようになっています。日本でも洋服を着る婦人は立派に足を出しています。今に、いい脚だな!と通る人を驚嘆させるほどの美しい脚が、銀座をうんと歩くに違いありません。(……)歩くということは、長い間日本婦人の知らなかったことであります。日本の婦人は長い間、脚はお尻の座布団とばかり思っていたのであります。
(三須裕「足はどうしたら美しくなるか」『婦人世界』1927/12)

1931年には、足のプロとはいえ、その足に保険をかけるダンサーが、関西からはじまっている。

イス生活とスポーティーな日常習慣が足の恰好のわるさをなくしたとはいっても、胴長短足のアジア人的体型はそうかんたんには変わらない。

これからの美人は足で評価される。理想の比率は首から下の三分の二の長さ(→年表〈現況〉1937年12月 「脚線美の比率」報知新聞 1937/12/9: 4)とあるが、結局この悲願は、身につけるものぜんたいのバランス、とりわけ靴の工夫に待つしかない。脚の健康、むしろ全身的な健康問題として警鐘が鳴らされるハイヒールも、アジア人にはまたべつの思慮が必要になっている。

結局この悲願は、身につけるものぜんたいのバランス、とりわけ靴の工夫に待つしかない。脚の健康、むしろ全身的な健康問題として警鐘が鳴らされるハイヒールも、アジア人にはまたべつの思慮が必要になっている。

手や足の指の爪をきれいにする習慣は、日本でも古くからあった。明治の家政書をみると、「手足の爪はたびたび心付けてとり、後を木賊(とくさ)にてこすり、紅をさすべし」などと出ている。紅は爪紅(つまべこ)といった。1888(明治21)年の女学生雑誌【以良都女(いらつめ)】は、若い女性のあいだでは薄紅インクを使って、上手に染めている人がたくさんいる、と報じている。

1907(明治40)年に大阪の十合呉服店の発行するカタログ誌が、「爪磨きの珍商売」というタイトルで、西洋風のマニキュアを施している女性を紹介している。東京築地のあるホテルで、3、4年以前から外国人相手に営業していると。珍商売と言っているくらいだから、美容・化粧品業界でも知るひとは少なかったのだろう。おなじ年の業界誌にも、欧米でのマニキュアリングの状況を、装爪、ということばを使って紹介している。

そのあと1910年代(ほぼ大正前半期)を通じてマニキュアは、おもに花柳界の女性などを対象にしてゆっくりと普及していったらしい(→年表〈現況〉1912年11月 「流行のマネキア」東京日日新聞 1912/11/1: 7)。

婦人雑誌などに、マニキュアの紹介記事がさかんに現れはじめるのは、関東大震災(1923)のすこし前くらいの時期だった。しかし婦人雑誌のそうした記事が、じっさいに美爪術の流行とどう関係するかがはっきりしない。美容院でマニキュアの営業をしていた店はあまり知られておらず、マニキュアは2、3の小さな器具や薬品さえあれば、家庭でもむずかしいことではなかったから。それはマニキュアの最初の紹介者のひとり、山野千枝子がアメリカの旅から寄せた「素人にも出来る美爪術」(【婦女界】1921/9月)によってもたしかだろう。この時代のマニキュアは爪のかたちを整え、半透明な美しさに磨くことが中心だった。足の爪の手入れ――ペディキュアの勧めも、1930年代初め(昭和戦前期)には現れている(→年表〈現況〉1933年6月 「夏はことさら足の爪を美しくしましょう」読売新聞 1933/6/19: 9)。

マニキュアの営業はむしろ、高級理髪店での男性客向けのほうがよく知られていて、そういう店ではマニキュアガールなるものが雇われていた(→年表〈現況〉1932年2月 「マニキュアガール」都新聞 1932/2/5: 9)。これはダンスの流行とも関係しているにちがいない。

爪のきれい汚いはその当人がいちばん気になるもので、夫でもまったく気づかない人は多いだろう。手の美しさという点で1930(昭和5)年前後に取り上げられはじめたのは、脇毛の処理だった。脇毛の処理に熱心なのはアメリカ人で、多くはアメリカで修業した美容師がもたらしたもののひとつが、脱毛クリームだった(→年表〈現況〉1932年6月 メイ・牛山「腕と手のお化粧」【婦人世界】1932/6)。

1930年代とそれ以後(昭和5年以後)は、大都市中心ではあったが街を行く洋装の女性が年毎に増えた。しかも洋装のとくに多いのが夏だということで、腕を出して歩く女性が――むしろ女性のむきだしの白い腕が、初夏の都会の新しい景観のひとつになった、とさえいえるだろう。

腕のかたちは、ある程度太いか細いかというくらいで、あしほどに優劣がはっきりしないし、爪のおしゃれほど自己愛的でもないから、若い娘たちは無邪気に、大胆にむきだした。もちろんそれに対して、美容家はだまってはいなかったが。

夏の街には袂が少なくなり、俄然腕逞しき洋装の婦人が氾濫してきます。ところが袂で覆っていた腕を、急に露出させるようになって、今まで構わなかった腕の手入れが当然必要になってきます(……)。
(「腕の美容第一課」都新聞 1935/6/18: 9)
両腕を露出して颯爽と歩くのも夏の喜び、しかし、変に薄ぎたないカサカサしたお手々ではいやになります。お顔と平行して腕のお手入れが必要なシーズンです。
(「夏・裸身輝くとき 腕の魅力はこうして保て!」東京日日新聞 1937/5/26: 14)
(大丸 弘)