近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 美容
No. 208
タイトル 歯/唇
解説

開化当時、遠くの国から訪れた人々に、チャーミングといわれた日本の女性だが、彼女たちの口元はかなり汚く見えたらしい。そのひとつが涅歯(でっし=お歯黒)の習慣だ。

お歯黒は眉剃りとともに結婚した女性のしるしとされた。眉を剃り歯を染めた人妻は、おとなしやかに、また慎ましやかにみえた。この習慣はいろいろなかたちで批判の対象になったが、法的に禁じられたことはなかったから、急速に衰えはしたものの、とかく古風なものを正当なものと信じている老婦人や、日々の習慣になんの疑問も反省ももたない下層社会では、かなり後まで見ることができた。

1901(明治44)年の【風俗画報】230号以降に、?歯に関するキャンペーンめいた連続記事があった。その冒頭に黒畠堂主人なる人物の、お歯黒への哀惜の念が、ずいぶん難しい表現でのべられている。

昔は婦女の婚嫁するや、鉄漿(かね)を歯牙に塗布して貞操を表証せしもの、今は徒に洋風に僻して皓歯(こうし)を尚び、此良風上中の社会に於いては罕(まれ)にだに見る事能わざるに至り(……)古俗の美風を忍ぶ実に遺憾の極みと謂うべし。
(黒畠堂主人 「涅歯に就ての質問」【風俗画報】232号 1901/5月)

?歯はひとつの民族的習慣として納得されたろうが、それとはべつに、日本人の歯並びの悪さについてはかなり後々まで指摘されている。

外国人はよく、日本婦人の歯の汚いことを非難する、どんなに化粧を凝らしても、歯が汚くては台無しだ。
(「歯の手入れ」東京日日新聞 1926/5/20: 6)

江戸時代の歯科治療といえば、大体は痛む歯を抜くことだけだった。あとは痛み止めの消炎剤と、お呪いのたぐいしかなかった。今日の歯ブラシにあたる房楊枝も用いられていたし、房州砂とよばれる歯磨き粉もあるにはあったが、食後の一杯のお茶で、口中の食べかすを胃のなかへ流しこむだけの人が多かったろう。いつも房楊枝を使っている人間を、道楽者のようにそしっている川柳があるくらいだ。

開化後まもないわが国には外国人歯科医が何人か訪れていて、やがてそこで修行した日本人も開業するようになり、多くの日本人が恩恵をこうむっている。近代前半期の歯科診療の特色は、金の入歯かもしれない。1885(明治18)年に、静岡に隠棲の前将軍慶喜公が、純金の義歯2本を入れ、その価が400円だったと報じられた。このとき、太政大臣の月俸が800円だった。笑うとキラリと金歯が光る、そんなおしゃれが嫌われだしたのは1920年代(大正末~昭和初め)に入ってからのことらしい。

日本の婦人が垢抜けないのは、(……)歯の美醜ということを念頭に置かないのも大きな 原因でしょう。(……)今、悪い例を挙げると、みそっ歯、乱杭歯、出っ歯、金色燦然たる 唐獅子のような何れも興醒めさせられるものです。殊に金歯は、昔は一二本前に光る と愛嬌があると宣伝された時代があり、わざわざ健康な歯を削ってまで被せたものでした。しかし現代ではあまりに自然に反くものとして、(……)未開人の間に残って弊風となっています。
(国民新聞 1927/11/8)

関東大震災(1923)を過ぎたころから、新聞の家庭欄でも、歯列矯正の勧めが目立つようになる(→年表〈現況〉1925年3月 「容易に出来る歯並みの矯正」東京日日新聞 1925/3/6: 5)。歯並みが悪いのは、いかなる美人であっても台無しであると、歯と容貌の関係についての関心が高まってくる。

わるい歯並びを乱杭歯といった。八重歯というのは小さな歯が重なって生えて、すこし突き出しているのをいい、俗に女の八重歯は可愛いもの、ともいっていた。志賀直哉の『暗夜行路』(~1937)のなかにも、ある娘が「笑ふ時八重歯の見えるのが妙に誘惑的」というくだりがあり、同世代の谷崎潤一郎は、エッセイ『陰翳礼賛』(1933)のなかで、歯並びのよすぎるのは洋式トイレのタイルの壁を見るようだ、などと書いている。

歯列矯正の対象になるのは、歯並びのわるさだけでなく出っ歯(上顎前突)というものもある。フランス人画家ジョルジュ・ビゴーの描いた明治の日本人は、たいていはこの顔になっていて、日本人を猿なみに見ていたらしい彼の視線がわかる。大戦後の現代では、日本人にこういう容貌のひとはそれほど多くない。だれもが歯列矯正をうけたとも思えないので、形質人類学上のなにかがあったのだろうか。

出っ歯と関連するが、むきだした歯ぐきの、色のわるいのは見よいものではない。明治大正の女訓書などにはそんな言及はないが、昭和も10年近くになると、それを問題とする美容家がでてくる。ひとつには、日本の若いひとのあいだに、キスの習慣がひろがったためかもしれない。その美容家はこんなことを書いているが、ほんとうだろうか。

歯茎の色のよくないひとは、一週間に二度位、歯を磨くとき歯ブラシに棒紅をつけて、歯茎を軽くこするようにします。棒紅の色素が歯茎に浸みて、歯茎の色が見違えるほど美しくなります。そしてまた紅には歯を白くする作用もありますから、これは一挙両得であります。
(篠沢愛子【すがた】1934/8月)

女性の唇については、江戸時代から小さいほどよいものとされた。

女の口の大きはずいぶん醜きものなるが、其の大きき女が唇一杯に紅をつくれば、まるで鬼のようになりて怖ろしきものなり。
(「流行の化粧品」【新小説】1902/8月)

いわゆるおちょぼ口に見えるための化粧の工夫は、白粉(おしろい)を唇にまで塗りこんで、紅を真ん中にほんの少しつける、という方法だ。

壁のような白塗りの顔に、こんな紅のつけ方は不自然に感じられる時代がきて、1920年代くらいになると一般にはあまり見られなくなる。このころの女性は、白粉を塗ることほどには、口紅をつけることに固執しなかった。つけるとすれば、下唇だけに薄く塗る程度が多かった。口紅は祝いもの、などといわれ、お目出たごとには必ずつけるもの、とされていた。だから逆に不幸の装いには、紅は用いないものとされ、それを片化粧とよんだ。まだ学校に行っている娘が、お祝いごとの訪問に口紅をつけていないと、片化粧になるからと母親が叱ったりした。

唇ぜんたいに濃い紅を塗る化粧は、関東大震災後のことで、最初の評判は悪かった。

口紅は近頃活動の影響とでも申しましょうか、唇全体を毒々しいまでに紅くしておいでになる方は、頬紅の真っ赤な方よりよりも多いようにお見受けします、―お顔全体の品位というものが全く失はれ、口そのものといたしましても大きく見えて、誠にみっともない感じがいたします。
(山本久栄【婦人世界】1928/6月)

山本は『美容全集』(1927)の著者で、業界をリードする立場の美容師のひとり。この時代なにかにつけて映画の影響といわれたが、直接にはそうであっても、同時代の欧米の流行情報は、こうした口紅のつけ方が、彼の地では当たり前のことと報じている。山本は翌年の新聞には、耳隠しには艶っぽい濃いめの口紅がよい、とも書いている。

1931(昭和6)年12月22日の[大阪朝日新聞]、「デパートの窓から覗いた近代世相」によると、大阪の某百貨店で、最近とくに売上高の著しくふえた商品として、パジャマ、ズロース、乳バンド、口紅が上がっていて、口紅を人々が盛んにつけだしたのは、女給風俗の一般化のせいと分析している。しかしもうすこし視野をひろげ、女性の外出の機会が多くなったこと、職業女性の増加、そして多色の棒口紅の普及とも、むすびつけられないだろうか。

めんどうなことを言わず、女性の口もとは、低い鼻といっしょに隠してしまった方が賢いのだという冷酷な意見が、「目病み男に風邪女」というセリフを生んだようだ。

(大丸 弘)