近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 美容
No. 207
タイトル 眼の周り
解説

江戸時代とくらべて、女性の化粧の近代とはなにかといえば、その答はあきらかだ。それは白塗り化粧から、眼と口を強調する化粧への転換だ。眼の機能はものを見ることで、口の機能は飲食のほか、ものを言うことだ。観察し、発言する道具の強調が近代化粧の特色だとすれば、近代女性の生きかたを考えるうえで、それはとても示唆的だ。

化粧の近代の最初のできごとは、眉剃り、お歯黒の停止だった。眉剃りは歴史的には作り眉の一種だ。江戸時代、作り眉をしていたのは堂上人と芝居の役者だった。早くも1868(明治元)年に、男子の鉄漿(かね=お歯黒)、作り眉については所存に任すという法令が出ている。皇后・皇太后が鉄漿、黛(まゆずみ)を廃し、お歯黒と眉剃りの身体加工を批判した福沢諭吉が『かたは娘』を刊行したのが1872(明治5)年。一旦ゆきわたった風習が変わるのには時間がかかる。新しく眉を剃り、歯を染める人こそ稀になったといえ、江戸時代生まれの老女たちのなかには、時代が大正と変わるころになっても、まだ細々とその習慣を続けている人があったようだ。眉を剃ると顔がやさしくなる、というふうにいわれていた。

欧米人に接するようになった日本人は、彼らの髪の茶色い(紅い)こと、鼻の高いこと、からだの毛深いこと、などに眼を見はった。また彼らを描いた錦絵や挿絵を見ると、眼が多く二重瞼に表現されている。モンゴロイド系人種には一重瞼の人が多い。二重瞼の欧米人は表情が豊かに感ぜられ、そういう人を見なれていると、一重瞼の東洋人の顔は表情が読み取りにくく、不気味に感ぜられるときがある。

引目鈎鼻の時代から、浮世絵の狐目美人まで、わが国ではどちらかといえば細い眼のほうが好まれたらしい。それが1900年を過ぎるころから、パッチリ見開いた目にひとの好みが移ってくる。

好かれた、というのとはちがうが、1910年代(ほぼ大正前半期)に話題になった、いわゆる「新しい女」の外貌はつぎのようになっている。

一寸電車に乗り合わして、目玉の大きな、髪の赤茶けた、無造作のようで何処かツンと乙に気取って、いやに澄ましている女がいると、「オイ、新しい女だよ」と、パナマの連中が囁く。
(「赤裸々の新しい女」【大正公論】1913/7月)

この時代のトップ美容家だった北原十三男はつぎのように言っている。

西洋人の目を真似た、ぱっちりした眼が好まれる。眉毛と上瞼の間に青い絵の具を塗る。
(北原十三男「顔に似合う化粧」【婦人世界】1915/5月)

西洋人のような二重瞼へのあこがれは、盛んに輸入されたアメリカ映画の、美しい女優たちの豊かな表情にも影響されたのだろう。1920年代(大正末~昭和初め)には、高名な眼科医の内田孝蔵は、「二重瞼でなければ完全な眼とは云えない、聖母マリアはじめ西洋人はたいてい二重瞼だ」(→年表〈現況〉1924年7月 「二重瞼にする注射療法」国民新聞 1924/7/11: 6)と言い、注射や簡単な外科的方法によって、一重瞼を二重にすることを勧めている。

江戸時代から女の眉はやや太めの新月形がよいとされ、それを地蔵眉とよんでいる。人妻が眉をもっていなかった時代には、芸者や、芸者あがりの遊芸の師匠などの眉の濃さはめだったにちがいない。歌舞伎の女役では地蔵眉のほか、もう少し優しげな柳の葉型や月輪、一文字、里娘などがあり、紅と油墨を用いて引く。

ハリウッド映画の影響が、日本女性の化粧法にはっきりと現れるようになったのは、関東大震災後だ。クララ・ボウ風とか、ディートリッヒ風とかいって、だいたいほっそりした描き眉が、眼窩の上に引かれた(「この頃はやる眉の引き方」【資生堂月報】1925/12月)。ディズニーマンガの動物でわかるように、表情を表すために眉毛は決定的な役割をもつ。自分をどんな人間に見せたいかの願望は、眉毛の引き方ひとつで示される。もちろん一部の女性にすぎなかったが、描き眉とつけ睫毛は、西洋人くさいお化粧反対の声がおこった1930年代末(昭和10年代前半)まではつづけられた。眼を強調するためのアイラインもおなじころにはじめられている。

近頃はキネマの影響でしょうか、若い人で目の縁を隈取りしていらっしゃる方が多い様ですが、あれは大変下品で、醜いものです。マツゲにブラックメリーをつけますと目がはっきり美しく見え(……)。
(→年表〈現況〉1929年7月 「夏のお化粧」読売新聞 1929/7/26: 3)
外国では一般に眼の大きいのが賞美されるので、中年からはよく眼の縁に黒く墨をつけます。
(村田美都子「仏蘭西婦人の身嗜みとは?」【婦人画報】1935/3月)

欧米人の顔だちが日本人とちがって彫りが深いのは、鼻の高さ以上に、眼窩のくぼみのせいだ。日本人にも眼窩の深い人―窪眼(くぼめ)はいるが、猿眼とか石垣の蛍などといわれて、べつに美人の相とも思われていない。欧米人の左右の眼は深く落ち込んでいるので、鼻梁によってはっきり隔てられ、かぶさった額の先の眉毛が眼に迫って見える。日本では眼と眉毛の近い人相をむしろ卑しいとした。そのため窪眼の女性は、まぶたに濃く白粉(おしろい)を塗って強調したりした。西洋人風に見せるためには、逆にまぶたに影をつけなければならない。

わが国でシャドウの化粧がいつはじまったかははっきりしないが、もちろんこれもハリウッド映画のまねだろう。1931(昭和6)年に、美容家のメイ・牛山が、「アイシャドウは此頃よく売れると、化粧品店では申して居ります。なる程、散歩にも、夜の集まりにも、マブタを塗っている人達を多く見かけますが、そう上手に用いている方ばかりでもないようです(……)」(「はやりはじめたアイシャドウ」読売新聞 1931/7/1)と書いている。

欧米ではアイシャドウは夜用の化粧法とされてきた。眼の周囲にクマの出ることは疲労感を示し、生き生きした朝や昼間の表情とはちがった、もの憂げな気分を表す。だからアイシャドウは昼間の化粧に使うべきではない、という忠告が長いことなされた。いかにも物欲しそうで、玄人じみている、などと。しかしとりわけ眼窩の平坦な日本人にこそ、眼を引きたてるのに必要な化粧法、という早見君子の意見が傾聴に値する(→年表〈現況〉1935年3月 「アイシャドウ使用の可否」【すがた】1935/3月)。またおなじ時期に、つぎのようなハイレベルの意見もあった。

毛皮の美しさは埋もれ覆われた中から匂って来るような女性美にあるのです(……)。毛皮を配されることによってかもし出される素晴らしい陰影美を忘れてはいけません、この場合のお化粧にはぜひともシャドウ(陰影)に念を入れてください。
(「毛皮と化粧」報知新聞 1935/12/12: 6)
(大丸 弘)