近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 美容
No. 212
タイトル 美容整形
解説

開化後間もない1869(明治2)年4月の[六号新聞]に、つぎのような記事が掲載された。

信州の人が強盗のために鼻柱を切り落とされて治療の方法がなかったが、2月中旬東京の大病院にてイギリス人医師ウリース・シードルの手術を受け、もとの顔に戻った。その方法は、左右の眼の下の皮膚と、額の皮膚とを切り取り、三方より鼻を補ったとのこと、実にめずらしき手練というべきである。ウリースは手術に当たってはクロロフォルムという痺れ薬をかがせ前後を忘れさせるという。

おそらくわが国でおこなわれた形成外科手術の、もっとも早い事例のひとつだろう。形成外科は、戦争による人体の欠損を補うことがおもな目的として発達した。医学史ではとりわけ、第一次大戦の塹壕戦によるおびただしい顔面損傷が、復元技術の発達をうながしたとされる。この信州人の負傷はそれよりほぼ半世紀前だったが、有能な医師に出会えたことはしあわせだった。また施術にあたってクロロフォルム麻酔をほどこしていることも、注目される。クロロフォルムは欧米でも、使用がはじまってまだ間のない時期だった。明治初年の外国人医師による形成手術は、ものめずらしさのためか、ほかにも紹介された例がある。日本人医師による同様な手術も、明治時代を通じておこなわれていたにちがいないが、話題になりはじめるのは、ずっとのちになってからのことだ。

1908(明治41)年8月の【風俗画報】は、「隆鼻術の応用は最近の流行のひとつであろう」(「雑纂―隆鼻術」37)といっている。事実、おなじ年の[都新聞]の相談欄に、つぎのような相談が採用された。

私事生得鼻の形悪しく如何にせばやと思って居ります所へ此頃各新聞紙上に美形隆鼻術をやる病院の広告が出ましたので早速その手術を受けたいと思うのですが、夫れは顔や手足の肉を取って施術するのでしょうか、又毒にはならないでしょうか(……)。
(「隆鼻術について」都新聞 1908/4/16: 4)

この疑問に対する回答として、鼻を隆起させるのは固形ゼラチンの注射による。施術家の技倆次第で鼻は高くなるが、障害の有無については目下実験中、と。同様の相談が数件あったとのことで、施術医院の新聞広告も確認されているから、隆鼻術がこのころけっこうおこなわれはじめていたことは推測される。

1918(大正7)年に出た女性向き実用書『家庭読本 衛生の巻』では、美容整形とはちがうが、〈鼻の病気と容貌の美醜〉という章で、鼻茸、萎縮性鼻炎、腺様増殖症など、鼻梁の変形をきたす病気についてくわしい説明をしている。「此の病気により容貌の変化した者は、成長しても元通りになることはなく、一生醜い容貌で暮らさねばなりませぬ、ですから幼少のとき早く直してしまうことが最も必要です」(P77)といい、「親の無慈悲のため一生醜貌で―」とまで読者に迫っている。人気女優の松井須磨子が俳優養成学校を受験したとき、鼻が低すぎるといわれたため、パラフィン注入の隆鼻術をして合格したことも、そのころ話題になった。

容貌の美醜にとくに関わるのは、鼻のほかは、眼と、歯だろう。眼については日本人の場合、特別な変形をのぞけば、一重瞼を二重にするための施術がほとんどだった。瞼の一重と二重は美醜というより好みの問題だが、アジア系人種にくらべて、コーカサス系人種は二重が多い。近代のわが国の価値基準のひとつは、西洋風に、ということだから、第二次大戦前から二重瞼に整形する人は多かった。二重瞼の眼は一重瞼にくらべて表情が豊かになる。豊か、というのが適切でなければ、つよい、あるいはややしつこい眼差しになる。西洋人のまなざしはじつは瞼以上に、眼窩の深さがかかわっている。眼がくぼんでいるために眼の周囲に影ができ、眼の縁が濃くみえる。だから西洋人くさい顔にするためには、アジア人は眼のまわりの化粧に技巧が必要になる。そんな末梢技巧でなく、西洋人のように眼窩をくぼめてしまう外科的方法――実際は額をつきだす――がされるようになったのは最近のことだ。

丸ビル内に診療所をもっていた内田孝蔵医師は、戦前における眼の形成手術のプロパガンディストとして功績があった。一重瞼、眼瞼下垂など眼の形成手術はたいていは短時間ですむので、1930年代(昭和戦前期)の丸ビル美人や映画女優さんには、銀座の買いものついでのように、内田博士のお世話になった人が多いらしい。

歯ならびをよくして噛みあわせを改善する歯列矯正が、だいたいアメリカの技術を導入して日本でおこなわれるようになったのは1930年代(昭和5年~)らしい。現在では、人間の容貌の生理学的な方面からの専門家というと、ほぼ歯科医になっているようだ。最近は歯列矯正のしかけも、ちょっと見ではわからないくらい工夫されてきた。そのためむかしのような極端な出っ歯のひとはめずらしくなった。戦前の方法がどんなに大げさなものだったかは、テリー・ギリアムの映画《未来世紀ブラジル》や、ティム・バートンの映画《チャーリーとチョコレート工場》を見るとわかる。もちろんやや誇張されてはいるが。出っ歯というのは、一種の性格と結びつけられもした。あの覗き魔の出歯亀もそうで、謂われなき差別、というほかない。

美容的な形成手術のさかんになったのは洋装の普及と関係あるという。1923(大正12)年の読売新聞は、結婚前に容姿を矯正しようと、整形外科医の門を叩く若い女性がふえている(→年表〈現況〉1923年3月 「嫁入り前の容姿矯正―婦人の整形外科手術が大流行」読売新聞 1923/3/12: 4)と報じている。その多くは日本人に多い脊椎湾曲の矯正が目的だが、なかには膝から下の肉を削り取って、スンナリさせてください、などと注文するモダンガールがいるとのこと。帝大整形外科外来の担当医は、「これは日本婦人の自覚と見てよいが、ひとつには洋装のもたらした産物であろう」と語っている。

乳房の整形もおなじように洋装の普及の結果だろう。外国では大きすぎて醜い乳房を小さくするのを目的とすることが多いのだが、わが国の女性は乳房を豊かにすることのほうがふつうらしい。脊椎湾曲矯正とはちがって健康とは無関係なだけに、わが国ではおくれて、1930年代に入ってからおこなわれるようになったようだ(→年表〈現況〉1934年4月 「乳房の美容整形」読売新聞 1934/4/8: 9)。

(大丸 弘)