| テーマ | 美容 |
|---|---|
| No. | 219 |
| タイトル | 日本髪の時代 |
| 解説 | 1880年代後半(ほぼ明治10年代末)に束髪が結われはじめてから、それ以外の女性の髪を日本髪(にほんがみ)というようになる。だからといって、束髪を西洋髪とよんだわけではない。ヨウガミという言いかたも一部の人はしたらしいが、しかし束髪の種類のなかには、日本の従来の髪型もふくまれているので、これは正しくない。束髪は手軽な束ね髪、であるのに対して、日本髪は結び髪なのであり、結んだ髷(まげ)をもっていることが特色。日本髪の種類とは、その髷の結び様の種類と思ってよい。 もちろん束ねると結ぶはことばの綾のようなもので、束髪の上げ巻とか英吉利巻とかも、一種の髷といえないことはないのだが。 近代の日本髪は、基本的には前髪、鬢(びん)、後髪、それに髷、という四つの部分からなりたつ。 前髪は額のすぐ上の髪。もっともめだつ部分で、丸くふくらましているのがふつう。幕末から明治にかけては前髪が極端に小さく、ほとんどないにひとしいひともあった。1890年代(ほぼ明治20年代)以後は髪型ぜんたいが大きくなってゆくが、そのなかでも前髪はとりわけめだつ。前髪を切って、前に下げることは開化期の流行だったようだが、のちに束髪でもされている。しかしどちらもなぜか文字資料ではほとんどとりあげられていない。前髪に簪を挿すのは少女の特色で、ビラビラといった。 鬢は両耳の横の張り出し。絵や写真で見ると厚ぼったく見えるが、髪の毛の量はごく少なく、レースのように透けているのがふつう。夏にはとりわけそれが涼しげにみえた。17世紀後半には鯨のひげ製の支えものをつかって、燈籠のように張りだした時期もあった。鬢が張っていると髪ぜんたいが大仰な感じになり、江戸後期以後は嫌われた。 後髪は髱(たぼ)あるいはつと、ともいう。髪の毛の多いひとが、この部分をふくらませて、髷の毛の量を調節したのにはじまる。襟足を覆うため、後ろから見た襟元の魅力のカナメになる。髱がきものの襟を汚さないようにというのが、抜き襟の理由だった。その理屈からいえば、束髪や洋髪で抜き襟をするのはおかしいことになる。髱の大きさと、襟の抜きかたの調和に気をつけるよう、注意されたもの。 前髪、鬢、髱をつくった残りの髪の毛をまとめて、後頭部でむすぶのが髷。この、髷の結び様のヴァラエティが、日本髪の髪型といってよい。髷は日本髪だけでなく束髪にもある。日本髪でも束髪でもいろいろな名称は要するにこの髷の結び様だ。 女性の結髪は前髪、鬢、髱、そして髷の四部分をもつといっても例外はある。例外というのは、手をかけずに仮にまとめておく、という種類の髪だ。江戸時代の女性はほとんどのひとが髪は自分であげた。一日中立ち働かなければならない女性もいたし、髪をあげている時間の惜しいひとも、不器用なひともいたにちがいない。 髪を洗って乾くまでのあいだ、散らし髪ではあんまりというので、先っぽのほうを、背中でゆるく結んでおくのを馬の尾、といった。この馬の尾結びは、散らし髪のつぎともいえる仮のまとめようで、髪型ともいえないが、その髪の先を折り返して、後頭部で櫛や簪をつかって簡単にまとめるまとめ方に、じれった結び、達磨返し、毛だるま、櫛巻などがあった。 『守貞謾稿(もりさだまんこう)』はじめいくつかの同時代の資料を比較してみても、粗雑な略画の多いせいもあるのだろうが、そのスタイルと名前とはかならずしも一致しない。要するに、どれもが自分の手でザッとまとめたにすぎないのだから、名前のつけようもごくいい加減、と考えておくほうが事実に近いだろう。 このなかで櫛巻というのは守貞が、「文化以ノ仮髻(もとどり)ハ、此櫛巻ヲ専トス」と言い、幕末も御殿女中の仮結びはこの櫛巻だけ、とも言っているくらい、やや形式化しているようでもあるが、じっさいはかなり多様だったにちがいない。 この種の略髪は日常の髪型としてはほぼ明治初期で終わる。下等社会での風習だから、品の悪いもの、なかにはリファインされて、仇っぽいもの、ということになっている。 1900(明治33)年以後になると、女性の日本髪は多様さを失ってしまう。1880、1890年代、明治中期に十代の娘さんならだれもが結っていた唐人髷や三ツ輪、蝶々、天神髷も廃れた。芸者たちが結っていた潰し島田や芸子髷もほとんど見られなくなった。概して言うと、もっとも日常的で、「高尚」とはいえないようなタイプの髪が消えた。 『東京風俗志』(1898~1902)の髪型の項のように、50種以上の名前が知られ、その髪が実際にその時代、市中で結われていたとも考えにくい。ある意味では、髪型は結い手の思いつきや気まぐれから、もっと多様だったともいえるが、なんとも名のつけようのない、いい加減な髪も多かったにちがいない。 (大丸 弘) |