近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 美容
No. 203
タイトル 洋風肌色化粧
解説

第二次大戦前に日本を訪れた外国人が、日本女性を見て奇異に感じたことのひとつは、お面のように顔を白く塗っている化粧法だった。この塗り方は、一般には1920年代(大正末~昭和初め)頃までだったが(→年表〈現況〉1924年12月 「春のお化粧」東京日日新聞 1924/12/25: 6)、大戦後でも花嫁さんや、踊りの舞台化粧、花柳界、とくに京都の舞妓さんの化粧法に残っている。舞妓さんもいいが、あの顔だけは気味がわるい、という人は現代ではすくなくない。

有鉛白粉(おしろい)の規制は、1900(明治33)年の〈有害性着色料取締規則〉でも禁止対象からはずれるなど遅々としていた。その理由は、白粉が皮膚から吸収されることはほとんどないこと、無鉛白粉はつきが悪いこと、という事実があったためだ。

1903(明治36)年に警視庁の担当部長はつぎのような見解を公表した。鉛毒は人の想像するほど甚だしいものではないが、なるべくなら無鉛の白粉を用いて薄化粧するように、また女学生が通学時以外に白粉を使うことも差し支えない、そして最後に、「白粉を用いるは間接に身体清潔保持のうえに影響して、衛生に叶うものなり」と。この時点で、東京府下で製造されていた白粉86種中、まったく無鉛のものは20種、と報告されている(→年表〈現況〉1903年8月「有害白粉と無害白粉」読売新聞 1903/8/30: 3)。有鉛白粉の全面製造停止は何度かあったが、しかし有鉛白粉は、白塗りをぜひ必要とする花街や芸能人のあいだでは、パッチリと呼ばれてその後も相変わらず使われ、第二次大戦後の油製ドーラン化粧の出現までつづいた。

1920年代はまだ白塗りの時代ではあったが、当時の新聞にはいつも、和風濃化粧と、洋風薄化粧を比較する宣伝記事が載っている。白粉のつきをよくするための、それまでの蝋や油製の白粉下地に代わって、クリームなど牛脂や乳製品の化粧料が舶来し、やがて日本でも製造されるようになる。舶来化粧品は高価だった。しかしいままで嗅いだことのない香りだけでなく、そのカタカナ名前も、ボトルや紙箱のデザインも、モダンで、夢があった。西洋の化粧品は、日本人の肌にはむかないといわれた時期もあったが、やがて刷毛で固練りの白粉を塗りつける和風化粧は、婚礼の着つけだけに残るようになる。お面を被ったような白塗りの花嫁さんを見て涙を流す母親のそばで、無遠慮に笑いだす弟のいる時代になっていた。

白塗りの厚化粧を避ける風潮は、女性の教育水準の向上とも関係するようだ。「お化粧がいくぶん薄めになったのは、一般婦人の審美眼の高まったように、嬉しく思われます」と語っている美容師は、やや高いところからものを言っているように聞こえるが(「梅咲く頃のお化粧」都新聞 1920/2/9: 4)、女学校や専門学校出の美容師たち、なかでも女子美術学校を出た日本画家でもある早見君子や、芝山みよか等の発言は、それを欧風といってもよいが、より自然な、生きた人間らしい女性美の方向をめざしていた。

白いお化粧をしない、少なくとも都会の女性は、ちょっとした工夫だけで、むしろ、生きのよい小魚のような、ピンピンした肌の美を、公開することが出来るかと思います。
(早見君子「肌の美を誇る白粉抜きのお化粧」【婦人画報】1929/7月)

お盆のような白塗りが女の顔と信じられた時代ではなくなり、とりわけ男性とたちまじって働く職場などでは、化粧した顔や白粉臭さは場ちがいに感じられ、あまり賢い人間ともみられなくなった。若い女性の生毛の見えるような素肌が、健康的で、周囲から好感をもたれることも多かったろう。

より現代の女性らしいお化粧の特色は、第一に、肌を白くすることばかりに気を使うのではなく、眼と唇を強調することであり(→参考ノート No.207〈眼の周り〉参考ノート No.208〈歯/唇〉)、第二には、自然の皮膚の色やハリを生かすことだった。この第二の目的から、肌色の白粉が製造され、使用される。白粉に紅を混用する化粧法は以前からあったが、多色の白粉が発売されたのは、1917(大正6)年の資生堂「七色粉白粉」が最初といわれ、そのあと各社が追随した。欧風化粧のひとつの特徴は、顔を立体的にみせることだ。日本でも鼻を高くみせる化粧法などはあったが、それは白粉の塗りようの工夫にすぎなかった。1920年代以降の肌色練白粉は、やがては花嫁の白塗り化粧にさえ部分的に利用される。

乳製品である外来のクリーム類が使われるようになったのは、1900年代(ほぼ明治30年代)だった。1908(明治41)年の[東京日日新聞]は、前年を日本化粧史におけるメルクマールの年として、洗い粉とマッサージクリームの使用がはじまったことを、特集で紹介した(→年表〈現況〉1908年6月 「東京女風俗」東京日日新聞 1908/6/5: 6)。マッサージクリームは、当時評判になりはじめた美顔術で使用されたものだった。

1930年代(昭和5年~)になると、コールドクリーム、バニシングクリーム、ハイゼニッククリームなどのさまざまの種類のものが、いろいろと魅力的な効能がきによって各社から宣伝、発売されるようになる。そのはじめの時期、1930(昭和5)年の、東京市内における化粧品の販売額統計によると、クリームの販売額の増加がとくに著しく、その理由は、むかし顔を洗うのに石鹸をつかうのが贅沢と思われていたように、クリームにもそういうときがあったが、今はクリームの使用が一般常識になったため、と業界発表は分析している(→年表〈現況〉1931年10月 「化粧品の消費状況」報知新聞 1931/10/8: 9)。直接皮膚の化粧には関係ない薬効クリーム――ホルモン含有とか――や、男性用のクリームまで現れて、化粧品メーカーの宣伝広告は、毎朝新聞をひろげる女性の眼をうばった。

バニシングクリームと粉白粉で、出がけにかんたんに肌を整えられることは、朝の時間のきびしい職業婦人にとって恩恵だった。眼の化粧をする人はごくわずかだったので、棒口紅一本もっていれば、帰宅まで顔の心配はしないでよかった。棒口紅と、小さなバッグの中にも入るかわいいコンパクトの普及が、有職女性や学生だけでなく、女性の外出にとってどんなに役だったことだろう。

現代のお化粧―これは化粧水とニシングクリームを基礎に、その上に粉白粉をはいて仕上げるお化粧の仕方です。
(小幡恵津子『整容』1940)
(大丸 弘)