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6. 産業と流通
601 商品環境と流行
私はファッションなどとは縁がないよ、と卑下しているような、馬鹿にしているような口ぶりで言う老紳士が、けっこう今風にきまった恰好をしている例はめずらしくない。それには奥さんや娘さんの内助の功もあるだろうが、ひとつにはデパートの紳士服紳士用品売場の陳列商品から、そうけちくさいことをいわずに選べば、だいたいそれほど時代遅れではない紳士ができあがるためでもある。流行というものは商品がつくりだしている環境なのだから、並んでいる品揃えに素直に身を任せさえすれば、趣味のよしあしはともかく、立派な今風のおねえちゃんにも…
6. 産業と流通
602 衣料関連産業
近代以前、衣服に関連する商業取引は、布地と古着がほとんどすべてだった。布地――呉服、つまり絹織物と、太物、つまり木綿ものと、わずかの麻織物とは、多くが生産地で最終製品のかたちまで加工された。京友禅などの染め呉服、江戸そのほかでの藍染めなども著名だったが、ものの流通の構造には長いあいだ大きな変化はなかった。開化以後、衣服に関する品目と、その流通のかたちを大きく変えた原因の第一は、海外からの多様な輸入商品であり、第二は日本人の衣生活の変容、端的には洋装化だった。関連する輸入品のなかでもいちばん大きなものは毛…
6. 産業と流通
603 既製服
既製服の販売は日本では輸入洋品類のひとつとしてはじまっている。しかし江戸時代にも、出来合のきものというものがないわけではなかった。記録としては新しいことになるが、柳原や芝日蔭町あたりの古着屋が、安く仕入れた反物を大量に内職の仕立て人に出し、それを古着といっしょに売る、という商売があることを、1910年代後半(大正初め頃)の資料が報告している。こういう商売を子供屋といったらしい。それは製品がたいてい一つ身、三つ身、子供の襦袢、チャンチャンなどだったから。この種の流通のなかには、大人の絹ものの着物、羽織など…
6. 産業と流通
604 古着/古着屋/質屋
江戸時代から明治にかけての日本人の衣類は、そのほとんどが家庭で女の手によって製作された。それ以外は仕立屋に出すか、古着屋から手に入れた。だから古着屋が今でいえば既製服にあたる、と言うひともある。いま私たちの着るもののほとんどが既製服なので、この見かたはシェアの点ではあたっていないが、いまではほとんど忘れられている、むかしの衣生活での古着の比重を、もうすこし再認識する必要はありそうだ。江戸で古着屋といえば神田柳原が有名だが、古着屋はいたるところにあった。古着屋が軒を連ねているのが、柳原、浅草仲町、日本橋東…
6. 産業と流通
605 呉服屋
江戸人の衣料の入手は呉服屋と古着屋によっていた。呉服屋で買うのは反物で、その時代は、家族の着るものはたいていは家の女たちが仕立てた。もちろん仕立屋に出すこともあり、買った呉服屋にそれを頼むこともできる。呉服屋でも大店以外には、仕立物と称する一種の出来合きものを扱う店が多かった。また小さな店ではたいていは古着も扱っていたようだ。百万を超える住民の衣料の大部分を扱っていた呉服屋の数は、したがってずいぶん多かった。1897(明治30)年に書かれた『東京新繁昌記』には、「問屋を除き現今市中に兎に角に呉服屋と称し…
6. 産業と流通
606 洋品店
洋品店という言いかたが市民権を得たのは1910年代以後、大正に入ってからのことだろう。それまでは唐物屋とよぶのがふつうだった。また堅い言いかたをするなら、舶来雑貨商とか西洋小間物商という言いかたもあった。もっとも、多くの小売店は舶来の品だけを扱っていたのではなく、和洋小間物とか萬小間物とかいう名目で、あるいはこれまでどおり単に小間物店、雑貨店という看板で、帽子や鞄やメリヤスのシャツも品揃えしていた。小売店が品目を限定しないで、輸入雑貨衣料品全般の販売をしていたように、卸商もまた同様だった。地方の都市の例…
6. 産業と流通
607 小間物屋
小間物とは唐物に対して高麗物である、とむずかしいことを言っている本もあるが、庶民のことばの感覚からいえば、こまごましている物を売っているのが小間物屋さん、という方が実感がある。荒物屋という商売もあり、これは笊やまな板、たわしやしゃもじ、箒といった、勝手道具や生活実用品を扱っている。小間物屋はそれとくらべると、身の飾りを主にした小物をそろえていて、客のほとんどは女だった。商品が細々したものなので江戸時代には背負い小間物屋が繁盛した。小間物屋の若い衆といえばかならず小粋な男にきまっていたものだ。小間物はとり…
6. 産業と流通
608 百貨店
特定の商品だけを販売する専門店でなく、品目を限定しないで扱う大型店舗は、わが国の場合1880年代以後(ほぼ明治10年代)の勧工場、1900年代以後の百貨店、1950年代以後のスーパーマーケットの順で発展しているが、スーパーマーケットの前駆的な営業形態はすでに1930年代(昭和戦前期)に、百貨店に付帯する売場として現れている、という見かたもある。さらに第四の多品目大型店舗として、1990年代以後の百円ショップをあげる大胆な見かたもある。勧工場は1878(明治11)年1月、前年に上野公園で開催された、第1回…
6. 産業と流通
609 三越
資料の不完全な幕末から明治初めにかけては、売上高や資本金額等を示して東京の大呉服店の順位をきめることはできない。しかし駿河町の越後屋が抜きんでた位置にあった事実は、同時代の江戸/東京案内のたぐいや錦絵、巷の評判等々から納得される。「駿河町 畳の上の人通り」というよく知られた川柳。そしてまたお江戸で日に千両の金が落ちるのは魚河岸と、吉原と、越後屋という評判に、疑いをもつひともなかった。新しい時代を前にしてそれについてゆけず、没落した布袋屋のような老舗もあったが、1880年代から90年代(ほぼ明治10、20…
6. 産業と流通
610 仕立屋/洋服屋
洋服の製造と小売店の呼び名は、維新後の業界の発展、推移の過程でいろいろと変わってきた。そのため世代によって、ときには地域によって、多少よびかたにちがいがある。明治のはじめ、軍人や警察官を中心に洋式の制服が一斉に採用された時期は、とにかく間にあわせなければならないのだから、大量の既製服を海外から輸入しなければならなかったのは当然だ。既製服はいつはじまったかという議論もあるようだが、現実は洋服に関しては、既製服の方が先行していたのだ。1872(明治5)年11月12日に公布された太政官布告第339号と第373…
6. 産業と流通
611 洋裁/洋裁店
洋裁ということばがふつうに使われるようになったのも、1900年以後のことらしい。それ以前は和洋裁縫とか洋服裁縫といういいかたはあったが、たとえば洋裁ということばを冠した裁縫書はみあたらず、1908(明治41)年刊行の『洋裁宝典』(大見文太郎)あたりが早い例になる。明治時代には洋裁だけでなく、和裁ということばも一般的ではなかった。すべて裁縫書であり、そのなかでは開化後のごく早い時期から、洋服の一部――シャツやズボン下、帽子などの作り方が解説される、というのがふつうだ。男性の洋服は特定の職業や身分の人間にだ…
6. 産業と流通
612 洗濯屋
洗濯屋は、都会では第二次大戦以前から、クリーニング屋という言いかたでもよばれていた。しかし戦後になっても、ラーメンでなく支那そばという人が多い地方もあったくらいだから、クリーニングという言いかたにはなじめない人が、全国的には少なくなかったろう。問題は洗濯屋とクリーニング屋とを、区別している時代があったことだ。1910年代頃、つまり大正はじめ頃までの一般通念では、洗濯業、あるいは西洋洗濯業というのは、石鹸や各種の薬品を使用して衣服を水洗いする商売、それに対してクリーニング業とは原則として水を使わずに衣服等…