近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 産業と流通
No. 605
タイトル 呉服屋
解説

江戸人の衣料の入手は呉服屋と古着屋によっていた。呉服屋で買うのは反物で、その時代は、家族の着るものはたいていは家の女たちが仕立てた。もちろん仕立屋に出すこともあり、買った呉服屋にそれを頼むこともできる。呉服屋でも大店以外には、仕立物と称する一種の出来合きものを扱う店が多かった。また小さな店ではたいていは古着も扱っていたようだ。

百万を超える住民の衣料の大部分を扱っていた呉服屋の数は、したがってずいぶん多かった。1897(明治30)年に書かれた『東京新繁昌記』には、「問屋を除き現今市中に兎に角に呉服屋と称して価値ある」のが、日本橋区の60余軒以下、15区内に約280軒、としているが、ほぼおなじ時代の『東京姓名録』(1900)では、370名の呉服太物商の名が上がっている。店舗の総数がはっきりしないのは、ひとつには扱う商品の範囲がきまっていないためもあるだろう。呉服は絹織物、太物は木綿、麻織物として、このそれぞれを専門に扱う店もあったが、明治に入ると毛織物などの洋反物が入ってきて、洋反物を扱う店では同時に舶来雑貨も商品に加えるようになる。

またひとつには東京には江戸以来の、絹布、帯地、双子、生木綿、金巾等数種に分かれた問屋があって、日本橋区にほぼ集中して土蔵造りの店舗を構えていた。末端の消費者には関係のない存在だが、明治時代は税務上、納税額の大きな小売商を問屋と区別しなかったため、数字がはっきりしなくなっている。1903(明治36)年当時、呉服問屋の名簿には450名ほどの名があって、そのうち100名ほどは大型の小売商だという(「渡世いろいろ―呉服問屋同小売商」読売新聞 1903/4/24: 4)。ともあれ、呉服問屋、小売商とも、大変な数だったことはたしかのようだ。

呉服屋が前時代からの営業の仕方を守っていたのは、1900年代(明治30年代初め)までの40年足らずのあいだだった、とみてよいだろう。前時代からの営業の仕方、というのは、商品の内容にはラシャ、ネル、セル、モスリンなどの洋反物が加わったとはいえ、どの店も土蔵造りの重厚な店構えで、屋号を染め抜いた暖簾を低く下ろし、店内は広い畳敷きで、客の多くは履物を脱いで上がり、番頭と対座して品選びする。番頭の指示によって奥の蔵から商品を運んでくるのは小僧の役だ。番頭が小僧に命令するのは符牒の混じった独特の言い回しがあって、店のなかに活気を添えたらしい。売出しの日には、得意客は奥に招じてお膳を出すのも大店の習慣だった。

しかし世紀が変わるころから、こうした商売の仕方が捨て去られだんだんと陳列式が選ばれるようになった。それはおそらく大衆に人気のあった博覧会や、百貨店の前駆となる営業形態をとった勧工場の、露店風の買いものの習慣も影響したにちがいない。陳列式の営業には客にとって、つぎのような利点があると考えられた。(1)番頭たちに気兼ねなく、商品を自由に選ぶことができる。(2)買わなければ出られない、という負担を感じないで済む。(3) たくさんの商品に接することができ、思いがけない新しいものを見つける可能性がある、など。

一方、店の側からいうと、買いものもせず、見て回るだけで出て行ってしまう客が多かったら商売にならない、というような次元の言い分ばかりではなかった。なじみの得意客との昵懇(じっこん)の関係、ということを重く見る時代には、客の家の身分や懐具合、奥様の気性やお嬢様の学校まで知っている番頭がいて、いつどこへなにを着てゆくかは、老練な彼に任せておけば間違いない、ということがあるのも事実だった。与謝野晶子の『女子のふみ』(1910)中の「呉服屋を呼びに」に挙げられた女子書簡文例集で、呉服屋を家に呼ぶ手紙のなかに、「お願いしたいことが出来ましたから、いつものお手代に来て頂きたいのです」との文言がある。気心の知れた番頭手代であれば、無駄なことを説明しないで済む。パリのブティックのヴァンドゥーズ(vendeuse=セールス担当の女性)のようなプロフェッショナルがいることは、お客のためでもあるのだと。

座売りということ自体は、反物を長くひろげてみたり、肩にかけたりという呉服商売の特別な必要もあって、部分的には現代もひきつがれている。けれども陳列方式、土足での入店、暖簾を撤去して街路沿いのショーウインドウの設置など、呉服屋の商売の仕方が現代風になる一方だったなかで、中小の呉服屋にとってもっとも致命的だったのは、大呉服店のデパートメントストアへの転身だったろう。

日本の百貨店のほとんどは、古い暖簾の、大きな資本力を持っている大呉服店が看板を塗り替えたものだ。そのトップを切った三井呉服店の「デパート宣言」は1904(明治37)年のこと(→年表〈事件〉1904年12月 「デパートメントストア宣言」中外商業 1904/12/14: 1;都新聞 1905/1/3: 6)。しかし白木屋も大丸も高島屋も、まだいずれも呉服店の看板は掲げているものの、たとえば大阪心斎橋の高島屋飯田呉服店の1919(大正8)年の営業品目は、〈呉服太物、洋反物、洋傘、シャツ、ショール、袋物、小間物、化粧品、新画幅類、室内装飾品〉(『大阪指導』1917)となっていて、都心部のワンストップショッピングのための、総合小売店への方向を目指していることがわかる。しかしその時代の百貨店の目玉は、なんといっても扱い慣れた呉服売場だった。ひとつの階ぜんたいを呉服売場とし、眼のぱっちりしたマネキン人形を何体も立て、足を踏み入れる女性たちを陶酔させるような、華やかな売場を誇った。

呉服屋はなにも三越白木屋のような大店ばかりではなく、二間間口で主人と小僧がひとり、というような小店でも、きまった客筋と、それにあった品揃えを誤らなければ、それなりの商いはあったものだ。しかし1920年代後半(昭和初め頃)のそういった呉服屋について、こんな記事がある。「商品の数も少ないので、それこそ店に入ってみて手ぶらで出てくるのはきまりが悪く、気の小さい婦人などは少々遠路でも百貨店に行くという有様で、近頃大都会における呉服小売屋の姿はだんだんと寂しくなるばかり(……)特別の便宜がないかぎり、じぶんで品物を選ばるるのなれば、こうした店を避けらるるのがふつうのようです」(大阪毎日新聞社「呉服物を買う心得」『婦人宝鑑・家庭百科全書』1926)。

与謝野晶子が書いているように大きな呉服店の番頭や手代を家によぶことは、自分で買いもののために外出する習慣などなかった身分の女性たちには、ふつうのことだった。商品は小さな行李に入れて担ぐか、手押し車をつかうか、のちには自転車の荷台に積んでお得意様のお邸を訪問する。彼らはお邸の家族ひとりひとりの生活ぶりやお好みもよく心得ていたから、そんなに山のような商品をもちこむ必要はない。

それとはちがうが、担ぎ呉服屋というのもあり、多くは呉服屋の年季奉公をなにかワケがあって途中でやめたような人間だったろう。お馴染みももってけっこうな商売になっていたらしい。このなかには産地の織元から仕入れてはるばる上京してくるものもあり、ときにはその田舎訛りに欺されて、ひどいまがいものを掴まされることがあった。

(大丸 弘)