| テーマ | 産業と流通 |
|---|---|
| No. | 606 |
| タイトル | 洋品店 |
| 解説 | 洋品店という言いかたが市民権を得たのは1910年代以後、大正に入ってからのことだろう。それまでは唐物屋とよぶのがふつうだった。また堅い言いかたをするなら、舶来雑貨商とか西洋小間物商という言いかたもあった。もっとも、多くの小売店は舶来の品だけを扱っていたのではなく、和洋小間物とか萬小間物とかいう名目で、あるいはこれまでどおり単に小間物店、雑貨店という看板で、帽子や鞄やメリヤスのシャツも品揃えしていた。 小売店が品目を限定しないで、輸入雑貨衣料品全般の販売をしていたように、卸商もまた同様だった。地方の都市の例をあげると、日清戦争当時岡山市の、舶来物品卸商原田商店の扱い品目は、つぎのようになっている。 各種帽子、カバン、靴、洋傘、フラネル、メリヤス、ケット類 メリヤスのほとんどはシャツ、下着類であると思われ、ここに上がっている品目は、開化以来もっとも輸入量の多い生活雑貨だった。この原田商店は広告文中で、 洋燈芯製造販売 兵庫清燧社茶獅子印マッチ一手販売 とも宣伝している。雑貨類の中のあるものが、わが国でも生産されるようになり、卸商自身が製造に手をつけている状況も、ここからうかがえる。 唐物商がもっとも発展したのはいうまでもなく開港地だった。横浜居留地近くの日本人商店は、1883(明治16)年で1,300人を超えていた欧米人もだいじな客だったから、最初のうちは「教わって売る」という商売で、ずいぶん苦労があったにちがいない。 横浜の場合、唐物屋や、その店に品物を供給する外国人商館などの多かった本町通、弁天通、太田町の、一方の端の1丁目は居留地に接し、もう一方の端の6丁目は桜木町駅――その当時の横浜駅を目の前にしている。仕入れた大荷物を背負ったにしても、40分で新橋駅に着く。駅を出ればもうそこは銀座の煉瓦街がひろがる。1869(明治2)年には、日本橋辺の唐物商富国屋が、横浜のフランス53番館の西洋人商社から既製洋服を仕入れていたが、まるで日本人の身体に合わなかった、という昔語りも残っている。しかしともあれ煉瓦街に、唐物屋が軒をならべ、あるいは往き来の人がハマ風の身なりに染まるのに、大して時間はかからなかった。 店先へ暖簾を下げるのではなく、ガラス戸を立てたのも、最初は確か神田の唐物屋だったと、光太郎の父、高村光雲は語っている。ものめずらしい品物が並べられている、というだけでなく、唐物屋――しばらく後の洋品屋には、その店構えにも、また店員の恰好にさえ、どこかバタ臭い目新しさや、異国への夢があったようだ。 唐物商が洋品屋に変わったころ、1910年代(大正初期)の洋品店の扱い品目は、つぎのようなものだった。 膝掛、毛布、メリヤス、肌着、靴下、手袋、ズボン吊、胴〆、ハンケチ、ネクタイ、釦、ホワイトシャツ、各種カラ、カフス、空気枕、尻敷、湯たんぽ、氷枕、香水、香 油、コスメチック、石鹸、歯磨、化粧水、手風琴、ハーモニカ、鏡、襟巻、子供マン ト、帽子、ナイフ、剃刀、革砥、ブラシ、櫛、石鹸箱、猿股、タオル、ステッキ、洋傘等(……)。 1910年代というと、こういった品目のほとんどは国内でも生産されてはいたが、その多くは舶来品に比べれば品質に差があり、なかにはとても比較にならないようなものもあった。洋品店を訪れる女客の多くは、横文字のブランドのついた舶来のハンドバッグを、壊れものにでも触るようにおそるおそる手にとっては、値段の書いてあるタッグを見て溜息をついたろう。 それでも欧州大戦景気で余裕の生じた階級のひとびとは、増築した洋風の応接間をベルギー・レースのカーテンや、アンピール風の壁鏡で飾ったり、娘たちに、むこうで流行っているという、セーラー・カラーの洋服を買ってやったりした。 大都会でも地方都市でも、洋品店の販売品目にかならず含まれているもののひとつは、ホワイトシャツやメリヤス下着だった。家族の着るものは原則として家の女たちが整える習慣は、夫や子どもたちが洋服を着る時代になっても、急にはなくならなかった。第二次大戦ごろまでは、立襟のあたりがなんとなく不格好な、手作りのワイシャツを、職場でもかなり見かけたものだ。子どもが中学や女学校の年頃ではもちろん、就職して嫁を貰うようになっても、下着はぜんぶ母親の自慢のミシン掛けの、手作りがめずらしくなかった。 大震災の年(1923)の春頃から、東京にも地方にも、洋服生地を売る店が急に増えだしたといわれる(「婦人子供洋服店で必ず成功する秘訣」【主婦之友】1925/1月)。それ以前は東京市内では3軒――八木屋、大河内、草刈ボタン店――ぐらいにすぎなかったのが、大震災はこの勢いにに拍車をかけたことになる。1930年代以後(昭和10年代半ば~)になると大都会では、洋品屋から洋装の生地屋が独立して看板を上げるようになった。 太平洋戦争末期、横浜市で洋品雑貨商の営業調査をしたことがある。対象となった小売商店中で完全記入は234店だけだったが、そのうち小売専業は99店で、90店が製造加工を兼ね、「それは主として洋裁業を営んでいるのであって、従来の慣行的業態である」(「洋品雑貨商」『呉服・洋品雑貨・洋服小売商の実態』1943)とされている。この時代はまだ、メリヤス製品を含めて、戦後のような大きなアパレルメーカーが少なかった。既製下着類の大部分は、輸入品のとだえたその時代、洋品店自身か、周辺の零細な縫製業者によって生産されていた 1930年代以後の洋品店は、ここでもまたデパートに客を奪われて先細りの方向を辿っている。海外情報をいち早く手に入れ、外国のブランドと直接取引するような少数の有名洋品店を除くと、洋品店はすでに過去のものとなったといえるだろう。 (大丸 弘) |